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[2]グルーの対日政策と8月革命説を考える

長尾龍一VS木村草太 「憲法と、国家と、人間と」

木村草太 首都大学東京教授(憲法学)

 この原稿は長尾龍一・東大名誉教授と木村草太・首都大学東京教授が6月14日、ジュンク堂池袋本店で行ったトークショー「憲法と、国家と、人間と」をもとに、両氏が加筆修正したものです。

長尾龍一 1938年生まれ。東京大学法学部卒。東京大学大学院総合文化研究科教授、日本大学法学部教授を経て東京大学名誉教授。主な著書に『憲法問題入門』(ちくま新書)、『リヴァイアサンー近代国家の思想と歴史』『法哲学入門』(いずれも講談社学術文庫)、『ケルゼン研究』(信山社出版)、編著に『カール・シュミット著作集(1・2)』(慈学社)などがある。

 

木村草太 1980年生まれ。東京大学法学部卒。同助手を経て首都大学東京教授(憲法学)。主な著書に『平等なき平等条項論』(東京大学出版会)、『憲法の急所』(羽鳥書店)、『キヨミズ准教授の法学入門』(星海社新書)、『憲法の創造力』(NHK出版新書)、『テレビが伝えない憲法の話』(PHP新書)、『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』(晶文社)などがある。

日本国憲法の成立に至る歴史

木村草太さん(左)と長尾龍一さん木村草太さん(左)と長尾龍一さん

木村 明治維新から大戦までの歴史観を踏まえて、今日のテーマの一つである「憲法」に話を進めたいと思います。日本国憲法の成立に至る歴史をまずは考えてみましょう。

 真珠湾攻撃が1941年。1945年に入ると日本軍の敗色が濃厚になってきて、ドイツも降伏しました。そんな中、7月26日にポツダム宣言が出された。このポツダム宣言について、長尾先生は著書の中で、日本の主権喪失につながる表現を慎重に避けていたという解説をされています。

 例えばポツダム宣言は、民主主義の復活強化や、基本的人権の尊重の確立を求めるわけですが、「復活強化」や「確立」という言葉は、日本に民主主義や基本的人権尊重の基礎があることを前提にしています。また、連合国はたしかに日本を占領するのだけれども、占領するのは日本の諸地点であるとしている。あるいは、日本国の主権が本州、北海道など、要するに植民地でない場所に限定されるとしていて、主権がなお残ることを示唆している。さらに、日本の政府が民主主義に対する一切の障害を除去するのであって、無条件降伏するのは日本軍である、というような表現になっている。ここには知日派のジョセフ・グルー国務次官の戦略の名残が見てとれるというのが、長尾先生の解説だと思います。このグルー国務次官がどういうことを考えていたのかを解説いただけますか?

ジョセフ・グルーの基本的発想とは

長尾龍一さん長尾龍一さん

長尾 戦争末期になると、Japan HandsとChina Handsの対立が、アメリカの国務省・極東専門家ばかりでなく、マスコミ世論でも表面化してきた。ジャパン・ハンズといっても、「真珠湾攻撃が正しかった」などというのではないのですが、日本の支配層の中に健全な大きな勢力があるという主張者たちです。もちろん日本専門家でも全然そういう傾向じゃない人もいたんですけど。

 ジャパン・ハンズの代表者がグルーで、彼は、日本の支配層の中に、moderates、穏健派と呼ぶべき人々、基本的に対米戦争にも反対だし、政府の中でも軍部を押さえようと必死に努力している人々があると見た。大久保利通の息子の牧野伸顕とか、幣原喜重郎とか、岡田啓介とか、それから海軍の米内光政とか。そしてそんな彼らの努力に助力するのがアメリカの賢明な行き方だっていうことを、ルーズベルト大統領に繰り返し助言していたんです。

 それから日米開戦後、アメリカに帰ってきてからも、日本の政府の中で現実にその穏健派が力を持っていて、彼らを表に引き出すことで日本を降伏させるという路線を取り続けた。そして小磯・米内連立内閣は穏健派の力でできたと見た。戦後はその穏健派に戦後の日本を委ねるべきだというのがグルーの基本的な発想だったわけですね。

木村 グルーはポツダム宣言の起草にも関わっていると思うんですが、「日本の民主主義の復活」という言い方は、つまり、そうした人たちに実権を握らせるんだという意味でしょうか?

長尾 どこに復活するかというと大正デモクラシーですね。もっともグルーが来たのは昭和7年ですから、本当は大正デモクラシー時代を日本で体験してるわけじゃないんですけど。むしろ終戦の時のスティムソン陸軍長官が長老としてアメリカ政府の中で非常に権威を持っていたんですが、そのスティムソンが昭和初期国務長官として日本を交渉相手としていた時期、浜口首相、幣原外相、若槻前首相などが、アメリカの交渉相手としては合理的な人々で、「この人たちが日本を支えていけばよかったのに、軍国主義者によって破壊された」という図式を持っていた。

 終戦直前に鈴木貫太郎内閣ができた時、鈴木こそまさしく典型的なグルーの言う穏健派の代表者で、この鈴木内閣ができたところで日本はもう必ず降伏してくる、とグルーやスティムソンは考えたのです。

 それからもう一つ重要なのは、グルーが国務次官だっただけではなく、国務長官代理だったことです。ステティニアス国務長官がサンフランシスコで国際連合の準備に専心していて、そこでワシントンでは彼は次官だけではなくて長官代理に任命されたのです。国務長官代理と国務次官は非常に違うんでして、長官代理だと、陸軍長官、海軍長官なんかとともに最高首脳部の会議の一員である。それに対して、次官だったら次官会議ですから一段低い。だからグルーは当時、最高首脳の会議で国務省代表として政策決定に参加していた。

 それでですね、3月10日の下町の大空襲、4月4日、後楽園のあたりから日本橋の大空襲があって、5月25日に山の手の大空襲があるんですけど、この5月25日の大空襲の時にグルーは眠れなくて、いろいろ考えた。このままで行けば、ドイツに勝ったソ連は大軍をシベリア鉄道から極東に送っていて、極東がソ連の支配下に置かれる危険性があるし、日本も危ない。今こそ日本を交渉の場に引き出すべきだということで、宣言案をつくった、これはドゥーマンという部下に原案を書かせたんですけど、日本政府に対し講和に応ずるようにという文書をつくった。これが後のポツダム宣言の原案なんです。

 その時に、トルーマン大統領に「こういうことをやりましょうよ」って言ったんだけど、トルーマンは「自分は賛成である」といいつつ、「ただ軍部の意見を聞いてくれ」と言ったんですね。それで軍部の意見というのが、主としてスティムソン陸軍長官ですから、別に非常に反日的ではないんですけど、「ちょっと待ってくれ」と言った。これが原爆実験と関わっている。このへんについてはいろんな研究があって、僕も十分にフォローしてないんですけど、いずれにせよ、まあ原爆実験含みで、もうちょっと時間が欲しい……これはソ連に対する威嚇という意味もあったんだという説もあって……。

木村 もともとグルーが考えていた降伏文書というのが、少しのびて、ポツダム宣言になっていくということですね?

グルーの発言力は急激に落ちていった

木村草太さん木村草太さん

長尾 そうです。それでその間にですね、小さなことのようで大きなことがあった。それはステティニアス国務長官を更迭してバーンズという人を国務長官にするという決断をトルーマン大統領がした。

 で、このバーンズという人は民主党政権の中の非常に重要な人物で、上院議員を長く務め、最高裁判事も務め、そのほかルーズベルトがヤルタ会談の時に連れていった。それだけ外交専門家としても権威がある。で、この7月3日という日が、彼の就任の日だったんですが、このバーンズが国務長官になるやいなや、グルーの発言力が急激に落ちるということになった。

 バーンズという人はアメリカ国内的には別に左翼でも進歩派でもないんですけど、ただ対日政策については非常に厳しい見方をしていて、グルーのアプローチに対して非常に批判的だったんです。

 それ以後、重要なことについてグルーに相談せずに決定を下すようになった。またバーンズっていう人は非常な自信家で、人の言うことなんか聞かずにどんどんやって、あとでソ連との間で原爆の技術を共有しようという案をトルーマン大統領に相談せずに推進して、トルーマンからひどく不興を買った。まあそんなこともあって。

木村 対日強硬派のバーンズが国務長官になったのが7月の冒頭で。

長尾 3日ですね。「ハル・ノート」で有名なハル元国務長官に相談したら、彼もやっぱりグルーに批判的で、いまの王朝の天皇制を残すという対日宣言原案の条項を削ることも、そのときに決定されたのです。

木村 ええ。もともとの案の中には、日本的国体というか、天皇制を残すことを明文で書いてある部分があったそうですね?

長尾 そうです。「present dynasty」、日本には昔から大文字のDynastyが一つしかないんですけど、まあ要するに西洋的発想で。present dynastyを残すことも含むって書いてあったのを。それが……。

木村 ポツダム宣言にはたしかに、そういう文言は入ってない。

長尾 だからそれを削ったんですね。そんなこともあって。グルーは、7月から急に発言力がなくなった。国務長官代理でなくなり、ただの次官になったというだけではなく。

「薮蛇(やぶへび)」

木村 そのような中で、8月に原爆投下、ソ連の参戦があった。日本ももはやポツダム宣言を黙殺することはできないということで、受諾を検討するわけです。

 その検討過程の8月9日に、枢密院議長の平沼騏一郎の主張に基づいてアメリカ側に、ポツダム宣言を受諾しても国体を護持できるのか、ということを問い合わせた。アメリカ側は、まさにその「天皇制を残す」という文言を意識的に削ったわけですが、日本側はあえて問い合わせたわけです。これを長尾先生は「藪蛇」と表現されています。

 8月11日に、バーンズ国務長官から回答が来るわけですね。その回答内容はと言いますと、まず、ポツダム宣言では日本の主権を残すかのように書いてあったにもかかわらず、天皇や日本政府の権限が、最高……。

長尾 連合国軍最高司令官。

木村 連合国軍最高司令官にSubject toすることになるとか、あるいは、日本政府のultimate formが日本人民の自由に表明する意思によって樹立される、などといった内容でした。この回答とポツダム宣言との違いについて、長尾先生はどうお考えになっていらっしゃいますか?

長尾 まず8月9日の夜に皇居の地下壕の中で行われた御前会議があって。

木村 御前会議というのは、憲法に書いてあったわけではないのですが、その名の通り、天皇陛下の前に閣僚や枢密院の議長などが集まって行われる最高意思決定会議ということですね。

長尾 そこで外務省は国体護持、つまりは天皇制の維持ですね、それだけを受諾の条件とすべきだっていう主張をした。それに対して陸軍省は戦犯の自主処罰だとか、四つ条件を出した。外務省案と陸軍省案が対立して、それで結局、3対3になった。で、議長は鈴木首相なんですが、当時の鈴木さんっていう人は、耳が遠いとか、いろんなことがありますけど、まあ……(会場・笑)。

 鈴木首相は普通だったらね、明治憲法の世界だったら、こういうことを天皇に委ねるっていうのは、「宸襟(しんきん)を悩ませる」ってわかりますか?  

 シンという字は「辰」という字にウカンムリなんですけど、天皇のことです。キンは「襟(えり)」。何で襟を悩まされるのかっていうと、天皇陛下のお心などを直接名指しするのはあまりに恐れ多く、代わりに脳の近くにある襟を指すということで代用するということです。ちょうどお偉い方を直接指すのは恐れ多いということでその座席(陛・殿・閣など)のそのまた下(陛下・殿下・閣下)を指すことで代用したのと同じです。

 いずれにせよ、陛下の宸襟をお悩ませするというのは非常に恐れ多いことで、すべて臣下が決断するというのが明治憲法の建前です。それが例外中の例外っていうか、意外中の意外というか、鈴木首相が、3対3で、我が国の非常事態だから、陛下ご自身に……。

木村 ご決断を。

長尾 ご決断をお願いしたいって言って。そこで天皇が「自分は外務省案を支持する」と決断した、これがすなわち、ポツダム宣言の受諾の……。

木村 第一歩というところですかね。

長尾 第一歩。まあ基本的決断なんです。そこへ平沼騏一郎という観念右翼で国本社という右翼団体を率いてきた枢密院議長ですが……。

木村 もともと大物の司法官僚でもありますよね。

長尾 そうです、そうです。はい。まあその話をし始めると長いんですけど。

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