理由の検討の積み重ねが、共通の確信に
2016年08月26日
注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、3月18日に早稲田大学で行われたものをベースに、講演者が加筆修正したものです。
立憲デモクラシーの会ホームページ
http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/
これは杉田敦さんがこの講座でおっしゃいました。実は直接デモクラシーというのは、一番金の力に左右されやすい。例えばアメリカで住民投票の形態があります。propositionといいます。同性愛者に対しては、婚姻資格を認めない。例えばこういうキャンペーンをやって、住民投票で勝ったりする。そういうことがある。金の力が強く作用する。そういう危険性を持っています。
だから住民が直接イエス、ノーで判断をするというのが、必ずしもいいこととは言えない。また、レファレンダムも、かりにそれが誤っていたと思い直しても、主権者の意思が直接示されるわけですから、これはなかなか修正できない。フィードバックが作用しにくいのです。
しかし90年代後半、96年の巻町、97年の御嵩町。そして99年の徳島の吉野川河口堰。一連の注目すべき住民投票が続きました。私が行ったのは岐阜県の御嵩町ですけれども、住民投票に先立つかなりの準備がありました。いろんな人を呼んできて、学習をし、自分たちでも議論をして、意見形成を行っていく。そういうことをやった上で、住民投票に移ったということが印象に残りました。学習や議論抜きに投票が行われたわけではない。御嵩町というのは、大規模な産廃処分場が予定されたところです。住民は、木曽川にその汚水が流れていくのではないかという不安を抱いた。御嵩町の住民は、木曽川を水源としているわけではなく、自分たちの飲む水は安全だけれども、やはりよくないということで立ち上がった。
もう一つの政治参加の形態が代表(代議制)デモクラシーです。直接デモクラシーは、市民が直接表明する意思を尊重する。その意味で、主意主義的です。それに対して、代表デモクラシーの形態というのは、さまざまな意見の代表、これを重視するデモクラシーの形態である。こういうふうに言えるのではないかと思っています。その点について若干お話しします。
10のスライドをお願いします。代表というのは英語では”re-presentation”ですね。「re」は「再び」とか、「再」という意味です。代表という言葉には、十分に現れていないもの、目下現前していない観点、見方、それらをあえて現前化する、という意味合いがある。再現前化がないと、デモクラシーは内部最適化に終始します。
例えば、将来世代の市民の観点、これを私たちがまったく代表できないとすれば、これはひどいことになるわけですね。いろんなことやりまくって、あとのつけは全部将来の世代に回していく。放射性廃棄物とか、そういう負の遺産を残していくということになりかねない。あるいは意思決定の影響というのは、国境の内部に完結するわけではないという観点から見れば、国境外のステークホルダーの視点というのも重要になってくる。例えば九州北部にはPM2.5が中国から流れてくる。明らかに中国の環境政策の遅れによって、日本の市民も健康被害を受けている。意思決定の影響は領域内に完結するものではなくなっている。
あるいは重度の知的障害者の観点であったり、動物の観点であったり。こういう様々な観点を私たちは代表することができる。もちろん、本人に代わってイエス、ノーと言うことはできません。しかし私がもしその立場にあったとしたら、私はどう考えるだろうかと推論してみる。そうすると、例えば動物の観点も、ある程度は代表することができる。ケージに押し込められて、ブロイラーとして飼われる。あまりに残酷ではないか。イギリスでは、ブロイラー飼育というのは残酷であるということで、取りやめになりました。意思は代表することはできない、しかし、観点は代表することができます。
自分が受容できないこと、到底受け入れがたいと思う事柄を他者に対して要求しない。これが政治的思考には求められます。相互性を自他の関係、あるいは自他が共有する制度に求めていく。
スライドの11を見てください。代表と言っても、議会における代表だけがすべてではありません。いまお話ししたように観点の代表ということを考えれば、私たちはいろいろな代表を行うことができるし、いろいろな代表の形態を持つことができる。例えば街頭公共圏を形成してデモや集会を行う。あるいはウォール街や立法院をオキュパイする。そこに参加している人はたしかに市民のごく一部ですが、そういう行動を通じて、十分に代表されていない意見を代表する。あるいは税金や公共料金を払わないという市民的不服従も代表の一つのかたちです。
篠原一さんの本『市民の政治学』をお読みの方はご存じでしょうけれども、ミニ・パブリックスと呼ばれる、インフォーマルな制度があります。熟議、理由の検討と言ってもなかなか自生的、自発的には生まれない。だとすれば、制度的につくってみてはどうか。正確な情報が得られて、意見の違う人と討論を行ったときに、私たちはどのように違った仕方で、意見を持つようになるだろうか。こういう機会を人為的につくっていくことができます。
人の意見というのは変わらないようでいて、結構変わる。正確な情報を得て、他者と意見を交換すると、あらかじめ持っていた自分の意見、例えば人工妊娠中絶についての意見のような、かなりハードな意見を持っているように見える場合でも、変化する。実際にそういう熟議の機会をつくってみてはどうか、ミニ・パブリックスはこういうアイデアにもとづいて設けられ、世界各地で実践されています。
日本でも2012年に、原発エネルギーにどれだけ2030年度に依存するか。こういう熟議(「討論型世論調査」)を政府が設置してやったことがあります。ご記憶でしょうか。でも現実の政策にはあまり生かされなかったので、ご記憶にないのかもしれません。
では、その熟議とは何なのか。熟議というのは、一人であれこれ思慮を重ねることを熟慮(deliberation)と言いますが、他者とともに政策や社会規範について理由の検討を行い、いわば共同で思慮を働かせること。それを「熟議」という言葉で表現するようになりました。民主的な意思形成に、理由の検討のプロセスを組み入れていく。法や政策を正当化する理由、その検討を組み入れていこうというのが熟議デモクラシーです。
意思形成と理由の検討を相互に媒介させていくということを熟議はやっているということになります。もちろん最終的には、
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