「現場」と「根性論」への幻想が生む地獄
2016年10月27日
映画『シン・ゴジラ』が好調である。筆者も監督一流の楽屋落ちもしくは主人公以外の人類がほぼ滅亡しての終劇に怯(おび)えながら、公開初日から劇場に赴いたが、非常に面白く、既に5回見に行った。まさしく傑作・快作である。
そう足らしめているのは、政府機構の描写等にみられる徹底したリアリズムという「現実」と日本人の琴線に触れる「現場の力が日本を救う」という美しい「虚構」を同時に描くことで、後者に説得力を与えていることである。まさに映画のキャッチコピーである「現実」VS「虚構」そのものであろう。
『シン・ゴジラ』は岡田斗司夫が指摘するように、3・11の仮想戦記である。つまり、現場はいついかなる状況でも撤退せず、最善の努力と創意工夫をし、上層部は口を出さずに責任だけ取るリーダーシップを発揮し、これらが問題を解決するという構図である。
実際、大河内首相は「僕はすごく巨大不明生物に詳しいんだ」と言い出すこともないし、戸惑いながらも迅速に決断を下していった。国民への説明も力強いし、ヘリで現場に見に行き、現場をかき乱すこともなく、対策本部の「巨災対」に乗り込むことも、口を出すことも一切しない。
よくわからない会議体や節電担当大臣のような意味不明な大臣ポストが乱立することもなかった。日本のポリティカルフィクション史上、最高の総理ではなかろうか。
そして、大河内首相以下8名の重要閣僚がゴジラの熱線によって吹き飛んだ後に、押し付け合いの末、首相臨時代理に就任した里見首相は「西郷どん」型のリーダーである。順送り人事と派閥の論功行賞で選ばれたにもかかわらず、基本的には現場にほとんど委任し、最終的な責任及び対外交渉だけを担い、それが功を奏す。これも日本映画史上では上位の総理だろう。
最終局面に際して、ゴジラによって放射線レベルが上昇したが、現場部隊は撤退せずにそのまま残る。そして、主人公の矢口官房副長官(政務)が作中で称賛したように、官民一体の現場の力が東京を救うというものである。そして、その現場の力を支えるのは、中央官僚の不眠不休の努力とカップ麺かお握り程度しか食べない、根性パワーによってである。
これはとても美しく、おそらく多くの方が、3・11でもこうあればよかったという夢を見事に描いたものである。
しかし、これは危険な幻想につながりかねない。
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