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[1]五木寛之氏と語る―乱世を生き抜く力と知恵

五木寛之VS島薗進VS鎌田東二

松本一弥 朝日新聞夕刊企画編集長、Journalist

※これは、2016年10月29日に上智大学での講演(五木寛之「悲」の力~乱世を生きぬくために)に続く形で行われた、作家の五木寛之氏、上智大学大学院グリーフケア研究所所長の島薗進氏、上智大学グリーフケア研究所特任教授の鎌田東二氏による鼎談(いずれも上智大学グリーフケア研究所とNPO法人東京自由大学の主催)をもとに、再構成のうえ加筆修正したものです。3回に分けてお届けします。

 心の中にストレートに入ってくる講演

鎌田東二さん鎌田東二さん

(鎌田東二氏が最初にほら貝を演奏して鼎談が始まる。会場・拍手)

鎌田 私たちが5年以上念願し続けた末に、今回初めて五木寛之さんの御登壇がかなうことになり、「『悲』の力~乱世を生きぬくために」という総合テーマで講演をしていただくことができました。こういう運びになったのも、キリスト教的にいえば「神様のおぼしめし」でしょうし、神道的にいえば「神ながら」、仏教的には「仏縁の力」、つまりは仏様の縁の力によるものでしょうか。

 五木さんの講演は本当に素晴らしいものでした。五木さんがこれまでにいろいろされてきたお仕事の中で、僕はゲストとして何度かお話をさせていただいことがあります。今までおそらく10回近くうかがっていると思うんですが、今日が一番、ストレートに心の中に入ってきました(会場・笑、拍手)。また上智大学グリーフケア研究所の主催ということもあり、「グリーフケア」というテーマと「悲の力」を結びつけて語っていただいたことに対し、心から感謝します。ありがとうございました(会場・拍手)。

仏教は音楽だ

鎌田東二さん(左)、五木寛之さん(真ん中)、島薗進さん(右)鎌田東二さん(左)、五木寛之さん(真ん中)、島薗進さん(右)

鎌田 鼎談に入る前に、五木さんの講演の中から特に印象に残った部分をいくつか振り返っておきたいと思います。

 まずは「仏教は音楽だ」というお話がありました。

五木 「仏陀は昔はそんなに有名ではなく、托鉢をして、あちこちでいろんなことをぶつぶつ言っているぐらいでした。そのうちに弟子たちが少しずつできてくる。ただ仏陀は一字も書かなかった。仏陀がブツブツと言ったことや答えたことを、弟子たちが一生懸命暗記したんです。そして、自分でそれを理解しただけではだめで、人に伝えなければいけないというふうなことをブディストは考えるものですから、弟子たちは町へ出て、仏陀の言葉を広く人々に伝えようとしました。その際、どうするかというと、覚えやすく、耳に入りやすい言葉で伝えたのです」
 「そのために仏陀の言葉を、偈(げ)にしました。偈というのは、正信偈(しょうしんげ)の「偈」ですね。偈っていうのは宗教的な歌のことです。それで仏陀の言葉を伝える時に、だれもが唱えやすく、聞きやすく、覚えやすい詩にして、そして三、四人でぞろぞろと出ていき、市場へ行きました。人々が群れているところで、彼らは車座になって、仏陀から聞いたその日の教えを人々に大声で伝えようとするんですが、でもだれも振り向いてくれない。では、どうするか、ブワーっとほらを吹き、そして太鼓をドラムのようにダダダダって激しく打ち鳴らした。そうすると人々が「一体何事だろう?」と近くに寄ってくる。その中で弟子たちが、仏陀の語った言葉をうまく詩にまとめ、そういう歌を3、4人で威勢よく歌い出したのです。だから仏教っていうのは、音楽なんですね。音楽に始まって、音楽に終わるんです」

源信が出てきた

 

鎌田 そして源信の話になりました。

五木寛之さん五木寛之さん

五木 「平安の頃に、奈良の二上山のふもとから恵心僧都源信という坊さんが出てきた。この人は「往生要集」という本を著した。そしてその中で「念仏を唱えなさい」、「信仰を持たなければ地獄へ落ちますよ。ちゃんとした仏様へ信じれば、極楽浄土へ行けますよ」ということを書いたんです。その本の中で極楽と地獄の諸相をありありと描写するんですが、これは不思議なものですね。極楽のほうはあんまり魅力がないんです。地獄の凄惨さっていうのは、もうまことに目を覆わしめるものであって、読むとぞくぞくっとするぐらいリアリティーがあってすごかった」
 「それで世間の人たちは、それを読んだ人たちの話を聞く。字の読めない人がほとんどですから。読んだ人がそれを壁に絵を描く。襖(ふすま)絵にする。あるいは大道芸人たちが、その地獄の篇のところだけを絵図にして、地獄の諸相を語って聞かせる。そこに人が黒山のように集まって、話を聞き、絵を見る。こういう中で、地獄という観念が、観念としてではなく、如実に、リアルな形でビジュアル化されて、広く人々のあいだに住みついたというのがこの時代なんです。悪人は死ねば地獄へ行くんだーー。その当時の世相というのは、まさに地獄でした。台風が来る、地震が来る、大水がある、内戦がある、疫病が流行する。そういう中で、鴨の河原っていうのは本当に累々(るいるい)と死体が投げ捨てられて、そのにおいが京都中を覆って、大雨が降って、その死体が下流に流されてみんながほっとしたって言われるぐらいのところなんです。そこに生きてる人たちは、みんなものすごい不安と恐怖を抱えて生きていた。そういう状態の人々はどうするか? やっぱり神や仏にすがりたいと思うわけなんです」

次に法然が出てくる

鎌田 その後、変な人が出てきます。法然というお坊さんですね。

五木 「人々が『お酒は飲んでいいんでしょうか?』って聞きます。そうすると法然は微笑して、『酒は本当は飲まないほうがいいが、世のならいにてあれば』っていうふうな答え方をします。例えば、生理の時に神社仏閣へ詣でていいのか? 神社もお寺も生理の時は行っちゃいけないというのが当時の常識だったんです。それを法然は『構いません』。一言で答えちゃう。こういう人だったんです。人がいろいろ集まってきて、法然の言葉を聞いて驚いた。つまり、『よろずの仏に疎(うと)まれてるかもしれない。神や仏は向こうに背中を向けてみんな去っていくかもしれない。でもたった一人だけ、向こうから逆に、神や仏の流れと逆行して、こちらに向けて歩いてきてくれる人がいる。それが阿弥陀様という仏様なんだ。その仏様は自分のほうから近づいてきて、あんたたちの肩を抱いて、そして抱きしめてくれるんだ』。こういうことを言ってくれるんですね」
 「念仏を唱えれば……念仏っていうのは南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏っていうのは、『もうあなたを信じます。あなたにおまかせします』っていう言葉です。『その一言さえはけば、その罪深き海山稼ぐ者のすべての人々を阿弥陀仏は抱きしめてくれるんだよ』って、こういうふうに言うもんですから、みんなびっくり仰天して、そりゃすごい話だと耳を疑いつつも、法然のもとに続々と人が集まってくる。まあ鎌倉新仏教の源流っていうのはそのへんからはじまるというふうに考えたらいいかもしれません」

それから親鸞が出てきた

鎌田東二さん鎌田東二さん

鎌田 そして続けて法然の弟子の親鸞が現れました。

 五木 「親鸞という人は『歎異抄』の中でその言行録が記され、そして『教行信証』その他諸々の大著があります。その他、書簡に手紙とかいろんなものがありますが、私は親鸞の中で一番興味深い仕事というのは、晩年ですね、84、5歳を過ぎて手がけた『和讃』という歌の作詞にあると思うんです。ものすごい数の何百という詩を彼は書いたんです。その『和讃』というのは、仏の徳を称える歌であり、近くのはなたれ小僧にも、こっちのおばあちゃんにもみんなわかるように、仏教というものの本当の本体を伝えようとする歌だったんですが、親鸞の仏教の思想っていうのは、最初の仏教の原点の思想。人々に歌でもって語りかけるというところに戻ってるっていうところが、私は非常に興味深いところなんです」
 「親鸞という人は歌がうまかった。その親鸞が当時、どういう形で和讃を書いたかっていうと、これがおもしろいんですけども、親鸞は、子供の頃に聞いた巷の流行歌、今様のメロディーが心の中をずーっと流れ続けていて消えなかったんですね。で、彼は自分が書いた歌を、昔の今様の形式、流行歌、歌謡曲、まあ演歌と言ってもいいようなそういう形式で書くんです。それは七五調っていうことです。七五調の四拍子ということですね。「釈迦如来かくれましまして二千四年になりたまう」……まあ、変形ですけれども、だいたい七五調がほとんどなんです。「如来大悲の恩徳は」とか、「ほねをくだきても謝すべし」とか、いろいろありますが、七五調。これは親鸞がおそらく、子供か少年時代に巷(ちまた)で熱病のように流行していた、そういう流行歌のリズムとメロディーというものを頭の中に描きながら書いた、そういう歌です。それからずーっと七五調っていうのはね、様々な形で日本人の心の中を流れていきます」
 「私は仏陀がその菩提樹の下で悟りを開いたという由緒あるインドの聖地にも行きましたが、たくだんのお坊さんたちが集まって歌を歌っているんですよ。「ブッダン・サラナン・ガッチャミー」というあの歌ですね。「ダンマン・サラナン・ガッチャーミー・サンガン・サラナン・ガッチャミー」。メロディーをつけ、リズムをつけ、繰り返し繰り返し、日の暮れるまで皆が歌い続けている。ああ、これが仏教の聖地なんだってつくづく思いました。これを日本では三帰文(さんげもん)なんていいますね。ロシアの詩集の扉に「詩は読むべからず、歌うべし」という有名な言葉がありますけれど、仏教の教えやイスラム教、キリスト教に限らず、歌を歌う、音楽を奏するという中に仏教の一番大事なものがある。そのことを私たちはすっかり忘れはてて、カラカラになった煮干しのような感じで宗教を考えているんじゃないだろうか。リズムとメロディー、その中に大事なことが歌われている。これが宗教の原点であろうというふうに思っているわけであります」

グリーフケア

島薗進さん島薗進さん

鎌田 そして最後にグリーフケアに触れていただきました。

 五木 「悲しみということに関して、『悲しみに悲しみを添うるようには弔(とむら)うべからず』という言葉が、『口伝鈔』という、親鸞の言葉を残したものの中にあります。その『口伝鈔』というのは、親鸞にとって、自分の直系のひ孫か何かが書いたもんだから、どうしても身内のものが書いたっていうことで、学者からは軽んじられてる資料なんです。他人が客観的に書いたものではない。身びいきもあるだろう。あるいはいろんないい加減なこともあるだろうっていうんで、まああんまり信用されてないんですが、その中ですごくいいエピソードが一つあります。葬式に行った時には、こういうふうに言いますね。『酒はこれ忘憂の名あり。これを勧めて、笑うほどになぐさめて去るべし。これこそが弔(とむら)いにてはあらん』。お通夜の場にはお酒というものも出るではないかと。未亡人にそれを勧めて、一献、二献と盃を重ねているうちに、泣き笑いの冗談の一つも出てくることもあろうと。『生前、あの人はこんなおかしな失敗もいたしておりました』なんて言って笑うこともあるではないかと。そこまでお慰めして去るべし。『悲しみの上にさらに悲しみを添うるようには弔うべからず』という言葉は非常に深いところがあると思います」
 「グリーフというのは、人間の痛み、悲しみなんですね。どこから生まれるのかっていうと、いろいろあるんです。例えば大震災とかそういうことに遭って、身内をなくされた犠牲者の方たちの痛みや悲しみというのは、想像もできないほど深い。でも日常、私たち一人一人が全員、それは抱えているものなんです。年を重ねるということ自体ですでにそういうものがある。私は『慈悲』という言葉を、『慈』というのは励まし、『悲』というのはなぐさめとこんなふうに感じていますね。『慈』というのはヒューマニズムというふうに訳したほうがいいです。フレンドシップと訳するか、ヒューマニズムと訳するか。悲というのはこれはまあ共感、共苦する心、そういう心で、なぐさめるっていうことだと思います」

第2部 鼎談

五木寛之さん(左)と島薗進さん五木寛之さん(左)と島薗進さん

鎌田 それでは第2部に入りたいと思います。まず島薗進さんに登場いただきます(会場・拍手)。そして五木寛之さんをもう一度大きな拍手でお迎えしたいと思います。

仏教とは「歌」である

島薗 ありがとうございます。鎌田さんとはもう40年のおつき合いです。その頃、まだこんなに「緑」じゃなかったんですけど(鎌田氏は全身、緑色の衣服をまとって登壇)。だんだん、だんだん緑になってきた。でも五木さんとはですね、実は50年前から、金沢市のご自宅がお近くで。

五木 ええ、ちょっと不思議なご縁でね。

島薗 同じ大家さんの、あれ何荘でしたかね?  忘れた。私は大きなうちに住んでましてね、五木さんは2階建ての長屋式のアパート(笑)。電話もない、お風呂もないという(笑)。そのときに私、五木さんをお見かけしたかどうかはわからないんですが、奥様とはね、その頃、うちの父の関係で知ってたんです。でもきょうのお話をうかがっていても、変わらないなと。ということは、お若いときから五木さんは老成……(会場・笑)。と言うより、いまのほうがお若い、いまもお若いんだけれども。

 今日の五木さんのお話では、私はやっぱりメロディー、リズム、音調のことが印象に残りました。五木さんは淡々とお話になられたのですが、そのあたりに何かやっぱりこう「悲」が流れているというか。まあそういうことがすごく一番感じたことですね。

 それからいくつか歌について語られました。今、五木さんは84歳になられているわけですが、その記憶力も本当にうらやましいなと。私もああいうふうに、次々と味わいのある歌がですね、「梁塵秘抄」とか、親鸞の「和讃」とかね、出てくるといいなと思うんですが、これはやっぱりおのずから五木さんの体の中に入ってらっしゃるんだろうなというふうに思いました。

 今日のお話の中では、仏教っていうのも歌だ、まずメロディーというのが大事だ、音が大事だということをおっしゃいました。実は、鎌田さんも若い時から「声の力」っていうことをずっと言っていました。ですので、そのことも思い出しながら五木さんのお話をうかがっておりました。

じめっとしてはいない演歌の世界

島薗進さん島薗進さん

島薗 「乱世」ということもあとでいろいろうかがいたいんですが。今日のお話の中で、まず日本の演歌ですね。これが私も大好きで、ずっとカラオケに行くと演歌を歌っておりました。

五木 何か、藤圭子がお好きだとかうかがいましたが――(会場・笑)。

島薗 私は藤圭子の、♪十五、十六、十七と、私の人生暗かった、って歌詞がありますよね。

五木 全部歌ってください(会場・笑)。

島薗 (笑)。宇多田ヒカルの歌は全然歌えないんですけども、藤圭子なんかは大好きで。でも本当に、あれはじめーっとして、私は演歌が好きなんですが、何でこういうふうになるんでしょう。きょうのお話はでも、じめっとしているようでじめっとしてないんだっていうお話でもあったと思うんです。

日本の演歌のトーンには浄土教が絡んでいる?

島薗 韓国人と歌っていると、韓国人も歌が好きなので、みんなが歌うっていうと「アリラン」を歌ったりします。我々もこう肩組んでね、「アリラン」を一緒に歌ったりすると、よく歌詞わかんないんだけども、それでもとても気持ちがこうよくなるんですね。それで、じゃあ日本からも歌わなきゃっていって、「赤とんぼ」、♪夕焼け小焼けの赤とんぼを歌ったら、韓国人がですね、「じめっとしてるな」って言うんですね。

 これが日本なんだよ、と。すばらしい演歌歌手は韓国の系統の人が多いですよね。美空ひばりとか都はるみとかもそうだと聞いております。にもかかわらず、何か韓国と日本でそこに少し違いがあるのかな。もしかしてきょうのお話を伺って、その日本風の演歌のトーンには浄土宗やら浄土真宗が絡んでるのかなというふうなこともちょっと思ったんですが。

乱世の中で浄土教は広がっていった

島薗 また浄土教はですね、もしかしたらインドより西ぐらいから始まっているかもしれないんだけれども、中国を通って、もちろん韓国も通って日本へ来ました。五木さんのきょうのお話の中で出てきた、まさにその源信から法然、親鸞の時代に日本で基盤ができて、それがずーっと広がって、現代まで来ている。しかし中国や韓国も浄土教の影響は大きかったんだけれども、もしかしたら日本が一番深いのかなというふうに思いまして。そのあたり、それはまさに「乱世」という意識が日本では強かったからなのかな。

 つまり平安時代の終わり、保元の乱、源平の戦いがありましてね、京都の町がぐちゃぐちゃになっちゃう。そして貴族はみんな滅びていく。木曽義仲のような変な人が都で暴れまわる。こういう中で法然が出てきて、法然の中にはいかにもそういう、まあきょうのお話でも、静かな悲しみがこうあると思うんです。そのあたりのところをですね、五木さんはいつ頃からこう浄土教にお惹かれになったのかなというふうに思って。

母の「正信偈」に合わせて踊っていた子供時代

五木寛之さん(左)と島薗進さん五木寛之さん(左)と島薗進さん

五木 これは何かすごく不思議なんですけども、自分で選んだっていうんじゃないんですね。母親が「あんたはね、子供のとき、四つ、五つの頃に、私たちが正信偈を唱えてお勤めを仏壇の前でしていると、後ろでそのリズムに合わせて踊ってたよ」っていうふうに言われてね(笑)。

 正信偈っていうのは「帰命無量寿如来」っていうやつなんですが。そういうリズムで踊っていたっていうことは、「あっ、うちは浄土真宗だったんだな」っていうことをあとから、かなりあとになってね、「へえ、そうだったのか」って思うぐらいなんですけれども。カトリックの家に生まれるとか、そういうことってありますよね。自分がこう進んでそれを選んだっていうんじゃないっていう。僕は真言宗の家に生まれていたら、また違うことやっていたかもしれないし、ちょっとわかりませんね。宮沢賢治は、自分が浄土真宗の家に生まれながら、それを捨てて法華経に転向するわけですけれど、これもすごいことだなって思うんですよね。先生のおうちは?

島薗 私のうちは浄土宗です。

五木 ああ、浄土宗。

島薗 ええ。ですので、法然を話題にしてくださると、ワクワクうれしくなる(笑)。

宗教を選んだのではなく、家がそうだった

五木 自分も宗教を選んだっていうのではなくて、家がそうだったんだなって。日本人の、まあ徳川家以来の宗教観っていうのは、家の宗教っていうのは強くないですか?

島薗 そうですよね。私もですから、法然上人の思想や信仰に共鳴して浄土宗っていうわけじゃなくて、家の宗教がそうだから、お葬式がきたらそれでいいやっていう、そういう感じなんですけども。

五木 ちょっとここでね、ここにお集まりの方で手挙げてみてもらって(会場・笑)。真言宗の方。はい。まずお家が真言宗の方っていらっしゃいますか? ああ。なるほど。姿形も気品がある(会場・笑)。天台宗の方は? あっ、知的ですよね(会場・笑)。浄土宗はいかがでしょうか?  ああ、なるほどね。それから浄土真宗の方はどうでしょうか?

島薗 一番多いな。浄土真宗が。

鎌田 浄土真宗と曹洞宗が多いですよね。

五木 ちょっと神道とキリスト教も(会場・笑)。

鎌田 神道の方っていますか? はい。若干いますね。キリスト教の方。はい。数名の方ですね。

五木 上智大学だからね。本当は(会場・笑)。

鎌田 でもこの催しはNPO法人東京自由大学と上智大学グリーフケア研究所の共催で行っているので、カトリックの方が多く来ているとかっていうほどでもないです(会場・笑)。

五木 本人が気がつかないうちに洗礼を受けて、名前をつけられているわけじゃないですか。私の友達に夏目漱石の遠戚にあたる石川くんっていう人がいたんですけど、ものすごい大酒飲みでね、大変な人だったんですけど。「シンゴ・セバスチャン・イシカワ」っていう(会場・笑)。僕らは「セバ公」「セバ公」って呼んでいましたけど。それはもう本人が選んだわけじゃないんで、ちょっとそういうところがいろいろありますね、日本の場合には。

お遍路に息づく真言宗の庶民性

鎌田東二さん鎌田東二さん

鎌田 家の宗教といえば、私の場合は高野山真言宗で、僕は小さい時から徳島に住んでいたから、お遍路さんがよく巡礼して来ました。うちにもお遍路さんが訪ねてきて、門付けのようなことをしていました。毎回その時に家にあるお米であるとか、おミカンであるとか、芋であるとか、そういうものを来られた方に差し上げる、そういう接待文化がありました。子供ながらそれを見ていました。

 我が家のいとこが真言宗の僧侶をしていたりしたのですから、真言宗が貴族宗教とは全然思わず、本当に庶民の、お遍路さんの信仰、民間信仰と思っていました。僕の中ではお大師さん信仰が真言宗のイメージです。一方では東寺のような貴族の中に、華やかに真言宗の世界、曼荼羅とかを絢爛豪華にして展開していく世界もあったので、庶民の真言宗と貴族の真言宗の両方があった……

五木 二つありますよね。温泉地に行くと弘法大師がこう杖をついたら湯が出たみたいな、そういうものと、それからそういう王朝文化の二つありますね。

鎌田 今日は、五木さんをお招きして、「悲」の力、五木さんが悲しみというものをけっしてネガティブにとらえているんじゃないということを明確にしたいと思っています。歌謡曲も今様も含めて、苦悩や悲しみを歌いつつ、それを越えていく力を持っている。

 つまり、「悲=カルナー」が生きていく上で、人を先へうながしたり、創造をうながしたりするような、強いパッション、苦しみであるけれども強い創造性を持っている。そういうことを一貫して、若い時から主張されてきたと思うので、今日はぜひ、五木さんにそのへんのところを語っていただきたい。また、親鸞上人の話が絶対出ると思っていたので、この時代のことを少し3人で掘り下げていきたい。そしてそれが現代とどう重なるかをそれぞれの視点で語り合いたいと思います。

仏教とは悲の宗教ではないか

島薗 五木さんのお話で、法然、親鸞の時代、まあ平安から鎌倉へ向かっていく時代っていうのが、まさに乱世で、そこに悲しみが流れているっていうのがありました。法然を厳しく批判した明恵という人がいますが、あの方も子供の頃に両親が亡くなって。

鎌田 お父さんは殺されていますね。

島薗 ええ。その通りですし、宮沢賢治は日蓮に帰依して浄土真宗を批判しましたね。お父さんと対立して、書いたものの中には真宗を批判するような感じがあるんだけれども。しかし宮沢賢治の書いた世界、表した世界は、全体に悲しみがあふれている。まあそういうふうに思います。

 ですので、まあそれも同時代というふうにもとらえられるし、ついては、真言、天台、まあ少し前の時代の仏教はどうかということなんですが、そもそも仏様、お釈迦様の中にそういう悲しみのトーンというか、悲の力というのが、つまり仏教にそもそもあるんじゃないかなっていうふうに思いまして。

 「慈悲」でですね、慈と悲の違いをおっしゃっていました。初期の法句経、つまり「ダンマパダ」を見ると、「慈」が強調されてると。「悲」が、いわゆる小乗仏教、まあいま原始仏教とか、いまのタイ、スリランカの上座部仏教には慈悲というのはそれほど強くなくて、まあ「慈」だと。慈経という慈のお経というのが、それだけで取り出されておりますが。

 そういうのがあって、その後、大乗仏教になって、お釈迦様が前世で苦しんでいる生き物や人の犠牲になる前生譚っていうのがあって。まあ宮沢賢治の話にも犠牲になる話が多いですが、これが大乗仏教の菩薩の精神に展開します。

幸せな家庭を捨てて出家した釈迦の悲しみ

島薗 しかし、そもそもお釈迦様の中に悲しみがあるんじゃないかなと思うんです。というのは、なぜお釈迦様が出家をしたのかということですね。幸せな家族だったわけですよね。小さな子供もいた。奥さんもたぶんきれいだった(会場・笑)。王様ですから(笑)。それを捨てて出家をされたというところにそもそも何か悲しみがあるよう気がしているんですね。

 その中には、生まれてすぐお母様が亡くなったということもあるし、それから、やがて釈迦族は滅びる。それを予感しているということもあったように思います。ですので、そもそも仏教の中に、ほかの、まあキリスト教は愛の宗教だと、それと比べて、仏教は悲の宗教だというふうに言ってもいいのかなというふうに思ったりしますが、いかがでしょうか?

悲しみには痛みと愛しさとが伴う

満員の会場満員の会場

鎌田 五木さん、いかがでしょうか?

五木 「悲しい」っていう言葉と、それから「愛しい」っていう言葉はですから重なっていますよね。だから大伴家持が「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば」。別に悲しいって言ってるわけじゃなくて、そのうらうらと照れる春日の中でひばりは高く舞い上がり、いまは緑で。だけどその風景もやがて夏になると枯れ色になり、秋になると霜が降りる。冬になると雪が降って、あのひばりも年老いて飛べなくなってしまうであろう。そしてこれを見ている自分もっていう。

 こういうね、思いはそこにあるとやっぱり愛しむ、いまの時代を生きている自分を愛しむっていう気持ちと悲しいっていう気持ちは重なってくるわけです。

 北森嘉蔵っていう人がいます。「神の痛みの神学」っていう本を書いた人だけども、この人の言っていることっていうのは非常におもしろかったことがあってね。それは北森さんが台湾に旅行したときに。

 福建語の中でね、「痛疼」(チャンタン)っていう言葉があるっていうんです。チャンタンっていうのは「痛」みという字と疼痛の、この中に冬という字を書く。痛疼という言葉があって、それは棘が刺さって痛いっていう感情と、母親が娘を見て、愛しいと思う感情と重なった同じ意味だそうです。つまり悲しみというのは、痛みを伴うものであると同時に、愛しいものっていう感覚が伴うものであって、寂しいとか悲しいとか切ないとかっていうものだけではないと。背後に何かこの何て言いますか、愛しいものが存在して、それが肉体的に痛みとして感じられるようなものではなかろうかと。

 それでイスラムの言葉の中にもそういう二つが重なってる言葉があるし、キリスト教文化の中にはその痛みっていうものが発見されなかったっていうことを嘆く人も中にはいるんですけども、本田さんというカトリックの司祭の方がですね……

島薗 本田哲郎さん。

五木 ええ。哲郎さんね。本田さんは、「はらわたがちぎれるような」っていう表現が聖書の中にあって、やっぱりそれは、単に悲しみではなくて、痛みであると同時に、相手を愛しむということと重なっているんだと言うんですね。その台湾の言葉である痛疼(チャンタン)っていう言葉はすごくいいなと思いましたね。「愛しい」っていう言葉と「痛み」っていう言葉が一緒になってる感情だと。だから、悲しい、切ない、つらい、それだけじゃなさそうだということなんですけども。

人の痛みを引き受けることができない無力の嘆き

五木 「悲」というのはどこから出てくるかって、例えばため息のような感情であるっていう。それはですね、共感共苦する心っていうのがあって、「この人の痛みを自分が半分引き受けてあげたい、見てられない」っていうので、そばに寄り添って、「あなたの痛みを私が引き受けましょう」って、こう相手に接したとしても、痛みやつらさや切なさは、その人個人のものであって、それを分けてあげることはできないんだっていうことが、やっぱりわかるんですね。

 それがはっきりわかったときに、己の無力さのゆえに思わず大きなため息と、「ああ」という声が漏れ出る。それがつまり「悲」という感情なのであって、悲しいとか切ないとかいうだけではなくて、人の痛みを自分が引き受けることができないとわかったときに発する無力の嘆きなんだというふうに僕はとらえているんですけどね。

内村鑑三の悲しみ

島薗 北森嘉蔵の「神の痛みの神学」って、「神が痛んでいる」というそういう感覚は現代的であると共に、例えばアウシュビッツとか広島とか経験した現代、「神様はいないのか」「神様はどこにいるのか」というそういう感じ方とも合っていると同時に、やっぱり日本的というふうに世界的に評価されてるんじゃないかなと思います。

五木 日本的というと批判ではなくて。

島薗 ええ。それで最近、私わかったのはですね、内村鑑三。内村鑑三っていうキリスト者もですね、非常にこう悲しみを強く表した人じゃないかなと思うんですね。あれだけたくさん弟子をつくった宗教指導者、まあ清沢満之と同時代で、清沢満之からもたくさんの弟子が出てくると思いますが、内村鑑三からは文部大臣が何人か出たり、東大総長が複数、出たり、それから作家、小山内薫とか志賀直哉なんかも出て、大変な人を育てました。その中で、内村鑑三は何か厳しい父親的な、神の命を受けて厳格に若者を導いた人というふうな感じがあるんですが、実は非常にこう悲しみを深く表現して、それが人の心に響いたという面があるんじゃないかなと思うんですね。

結婚の失敗、不敬事件、妻と娘の死……

島薗 それはね、一番初期って言いますか、内村鑑三はまあ最初の結婚で失敗したんですね。これがもうすごく彼の心の痛みになっています。逃げるようにアメリカへ行って、そこでもいろいろ苦労をした。それで今度は帰ってきまして、勤め先でまた苦労するんですが、その中でも一高の先生になりまして、教育勅語が一高に届いたときに、みんなそろって礼をしなきゃいけない。

五木 お辞儀の仕方があるから。

島薗 ええ。深々と礼をしなきゃいけないのをできなかった。つまり深々と礼ができるのは神様しかいない。そういう教育勅語というものに礼をするという気持ちになれなくって、まあ軽くしたんです。これを見ていた学生やらがとがめてですね、それで辞めなきゃならなくなるんですね。

 そのあいだに、彼を応援してくれた同僚もいたんですが、本当に彼を支えてくれたのが2番目の妻だったんです。ところがその妻が、まず最初、一番苦しいときに、内村鑑三もインフルエンザになるんですが、そのあとで奥さんが亡くなるんですね。一番すったもんだしたときに。そのことを数年後にね、その間、一高を辞めてから数年間っていうのは本当にぎりぎりの生活を彼は続けまして、大阪行ったり、熊本行ったり、そのあと京都にいましたけど、経済的にもぎりぎりの生活の中で、『基督信徒のなぐさめ』っていう本を書いているんです。

 その本は何年かあとの版は妻に捧げられてまして、まあいろんな悲しみについて書いてある本なんですが、その中で最初のところには、その妻を失った悲しみ。そしてそのときに「ほとんど信仰を捨てそうになった」と、そこまで書いているんですね。そのあとまた彼は娘を亡くしますね。

日本のキリスト教にも悲しみのトーンがある

島薗 旧約聖書のヨブ記では、ヨブという人の家族がたくさんつらい思いをして、自分もつらい目にあう。まあヨブ記というのはユダヤ、キリスト教の中の悲しみの文学っていうそういうものの一つだと思うんですが、それが内村にとっては、一生深いものになる。そういうふうに考えると内村の影響力というのは、悲しみですね。と同時に、キリスト教は「愛の宗教だ」と言ったけれども、少なくとも日本のキリスト教の中にはそういう悲しみのトーンというのがあると言ってもいいのかなと思います。

(2回目は1月30日に公開します)

プロフィール

五木寛之(作家) 1932年、福岡県に生まれる。戦後、北朝鮮より引き揚げ。早稲田大学文学部ロシア文学科中退。66年、「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞、「蒼ざめた馬を見よ」で第56回直木賞、「青春の門」で吉川英治文学賞を受ける。小説以外にも幅広い批評活動を続ける。代表作に「風に吹かれて」「朱鷺の墓」「戒厳令の夜」「蓮如」「風の王国」「大河の一滴」「TARIKI」「親鸞」(全6巻)など。
島薗進 1948年、東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。宗教学者。東京大学名誉教授・上智大学大学院実践宗教学研究科委員長・グリーフケア研究所所長。NPO法人東京自由大学学長。著書は「国家神道と日本人」「日本人の死生観を読む」「つくられた放射線『安全』論」「精神世界のゆくえ」ほか。
鎌田東二 1951年、徳島県阿南市生まれ。國学院大学大学院文革研究科博士課程修了。宗教学・民俗学。上智大学グリーフケア研究所特任教授・放送大学客員教授・京都大学名誉教授。NPO法人東京自由大学初代理事長。著書は「宗教と霊性」「神と仏の出会う国」「世直しの思想」ほか。

(撮影:吉永考宏)