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[6]「アジア主義」の息の根を止めた日露戦争

姜尚中 東京大学名誉教授、熊本県立劇場館長兼理事長

日露戦争の勝利で日本橋を凱旋(がいせん)行進する歩兵隊日露戦争の勝利で東京・日本橋を凱旋行進する歩兵隊=1906年

 さまざまな国や地域で政治の「不確実性」が増しています。それは特に、英国のEU離脱や欧州での極右勢力の台頭、そしてトランプ政権による「米国第一主義」など、欧米先進国にはなはだしい印象があります。

 こうしたなかで、いま日本は国際社会の中でどういう立ち位置を取ればよいのかが、問われています。しかし、米国やロシア、中国、韓国との関係、外交・安保政策をどうするのか、正解は非常にわかりづらいと言わざるを得ません。

 どうしたらそうした難問に答えられるのでしょうか。私は、「アジアの中で日本が生きていくとは具体的にどういうことなのか」という問いに立ち戻るしかないと思っています。つまり、「アジア主義」の再検討であり、新しいアジア主義の提案です。

日中連携としての「東亜協同体論」

 1930年代であれば、アジアとはひとえに中国でした。つまり、中国問題=アジア問題です。当時のアジア主義とは、いわば「日中連携」についての考え方でした。もちろん、そのときの日本というのは、満州国や朝鮮半島、台湾を含めたものですが。

 たとえば、近衛文麿のブレーンとして「東亜協同体論」を掲げた尾崎秀実や三木清たちがやろうとしたことは、やはり日中連携です。それは、対日経済封鎖であるABCD包囲網に対する一つの回答でした。それはつまり、包囲網からC=中国を取り除く、ということです。

 「東亜協同体論」とは端的に言うと、米国を中心とするアングロサクソンの世界秩序に対して向き合うという考え方でした。そのための東アジア連携というわけです。

 関東軍の板垣征四郎や石原莞爾なども、連携工作には満州国が不可欠であり、ある意味では、それこそ満州国のレゾンデートル(存在意義)だと思っていたのです。

外側の力を借りて本体を動かす

 こうした東アジア連携は、なぜ破綻したのでしょうか。

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