キューバ革命の精神と小国の姿勢
2017年03月01日
カストロは「キューバの水戸黄門」だった――21世紀まで生き残った革命家(WEBRONZA)
2016年11月に亡くなったフィデル・カストロの遺体は火葬された。社会主義国では歴史的な指導者が亡くなると遺体を加工して永久に保存しがちだが、カストロはそうでなく火葬するようにと言い残した。自分が神格化されるのを避けるためだ。さらに公共の場や記念碑などに自分の名をつけないよう遺言した。個人崇拝をやめさせるという信念を死後も貫いたのだ。
墓石はキューバ革命の思想的な指導者ホセ・マルティの廟のすぐそばだ。高さ3メートルの半球体の墓石の中央がくりぬかれ2016年12月4日、弟のラウルがここに遺灰の箱を納めた。表の銘板にはただ名前の「FIDEL」とだけ記された。国民から呼ばれてきた名である。
葬られた地サンティアゴ・デ・クーバはキューバ革命の発端となった地だ。カストロが最初に武装蜂起して襲ったのが、このサンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営だった。1953年の7月26日だ。この日が革命記念日である。失敗して捕えられたカストロは法廷で「歴史は私に無罪を宣告するだろう」と名言を残した。
襲撃した年はホセ・マルティの生誕から100周年に当たる。捕まったとき反乱の首謀者はだれかと聞かれたカストロは「ホセ・マルティだ!」と答えた。マルティの遺志を継いで革命を起こしたという意識だったのだ。カストロは常々「私はマルティ主義者だ」と語るほどマルティに心酔していた。カストロはマルクス主義者である前にマルティ主義者だった。
キューバ革命党を創立したマルティは詩人で哲学者である。スペイン植民地主義と闘った英雄として、キューバだけでなく中南米の全域で尊敬されている。彼が主張したのは、人間は本来、自由であり、社会の差別や抑圧をなくさなければならないという「人間の自由」だ。「人間はだれも他人の痛みを感じるべきであり、一人でも不幸な人がいるかぎり我々は人間ではない」と説いた。カストロは彼を師と仰いだ。
服役を終えて国外に追放されたカストロはあらためて武装訓練し、メキシコからヨットでキューバに侵攻した。それからわずか2年余りで独裁者を追い出し、革命に成功した。国民の支持があったからこれだけの短期間で成功したのだ。
カストロはマルティの思想に沿って革命を進めた。平等を旨にだれもが教育を受けられ貧しくとも医者にかかれるように尽くした。農地改革を実行してすべての農民が自分の土地を持てるようにしたのも、その表れである。
ところが、米国企業の土地を接収したことから米国と対立した。そこにソ連が介入してキューバを経済的に支えることになったため、キューバは冷戦構造に組み入れられた。否応なくソ連型の社会主義を採用することになったのだ。
だが、マルティの発想でもわかるように、本来、カストロが求めたのは社会主義というよりも社会正義である。
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