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[1]政治的リアリズムと超国家

丸山眞男の国際政治思想から現代日本を読む

五野井郁夫 高千穂大学経営学部教授(政治学・国際関係論)

注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、2016年12月16日に立教大学で行われたものをベースに、講演者が加筆修正したものです。

立憲デモクラシーの会ホームページ

http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/

講演する五野井郁夫教授
 

デマが力を握る時代になってしまった

 近年オルタナティヴ・ファクトなどという言葉を使う政治家がいますが、平たく言えばデマというものが大変力を握るようになってしまいました。トランプの勝利、そして2016年末にオックスフォード辞典が選んだ「post-truth」という、まさに事実とは異なるものが独り歩きをしてしまう。実際にトランプの発信した情報のうち約7割が嘘なのだそうです。しかしながら、その嘘の検証が追いつかず、あるイメージだけが肥大化していってしまう。それに対してどうやって戦うのかが今後たいへん大事になっていくわけです。

 2016年には、路上と議場で心ある人々が頑張ってくれた結果として、ヘイトスピーチの対策法が制定・施行されました。過去、デマを流したり罵詈雑言を言ったり、人の人権を傷つけて貶める、あるいは脅迫をすることも表現の自由であるというふうに騙〔かた〕ることが、残念なことにこれまでずっと許されてきました。これまで長い間大手を振ってきたさまざまな差別というものがあって、それをどう変えるかということが課題だったのです。2013年ぐらいからやりだした反差別運動、反レイシズム運動が実を結んで、これまでの長い闘いののち、路上でカウンターが全面展開してから3年間ほどでヘイトスピーチ禁止法の制定ができるようになったわけです。

 ということは、実は市民運動というのは、頑張れば、3年で超党派の法もつくれるということが近年わかってきたところです。そのさい戦略として主軸に据えたのはこれまでのように理想主義的であることは手放さずに、それでいて現実主義的に考えること、そして戦術として採用したのは、国会議員であれ、裁判所であれ、役所であれ警察であれ何であれ、人々の諸権利を守り現実を動かすことができるのならば、立法も司法も行政もプラグマティックに使っていこうということです。

 しかしそんなことを強調してやっていると、人権を擁護するだけで思想的に右かかった方々や職業としての経済右翼の方々から「五野井は左派だから、リベラルだから、けしからん」という非難が一方でありながら、もう一方で左はセクトの方々から「お前は政府を呼び込んでいる保守だ」、場合によっては「警察の手先である」と言われることが現在でもあります。右からも左からも攻撃を受けるわけですけれども、そういうことを言う人たちというのは、新聞やテレビの報道には勝てる人たちではないし、そんなに影響力はないというふうに、高をくくっていたのが、これまでのメディアの姿勢です。

 しかしこれを放っておくとどうなるのかというのが、実は本日のお題である超国家主義の議論でして、それを丸山眞男という戦後活躍した政治学者の主張を振り返りながら、きょうは考えていきたいと思っているわけです。

陣地戦でリベラルの側がパイを取っていくことが大事

講演する五野井郁夫教授
 2016年、この立憲デモクラシーの会の呼びかけ人の一人である白井聡さんと、あと社会学者の北田暁大さんと『リベラル再起動のために』(毎日新聞出版)という本を出しました。この本はまさに「リベラル頑張れ」という本だったのです。同様に『現代用語の基礎知識』という事典で、政治分野の用語選定と執筆を担当しました。こういうふうにリベラルの側、立憲デモクラシーの側が、自分たちでちゃんとメディアとその基底となる知識の主導権を握って、陣地を取り、そして巻き返していく。こういう陣地戦というものが実は最も有効なんじゃないかなと思っていまして、皆さんもできれば、投書とか、あるいは頑張っているテレビ局や新聞を励ますとか、そういった形で、ご自身で陣地戦をやっていただくということが大変大事になってこようかと思います。

 皆さんにぜひ学んでいただきたいと思いまして、できればお買い求めいただきたいのは、この2年間あたりで出た、松本礼二先生が編まれた「政治の世界」の丸山の論文集、そして古矢旬先生が編まれた『超国家主義の論理と心理』、これが実はいま大変手に取りやすい値段で、岩波文庫で入手可能になっています。このあたりをぜひお読みになって、現在と重ねて体感していただきたいと思うのです。

 実はこれがきょうのテーマなのですが、丸山眞男本人は戦後民主主義者の典型として、神棚に祭られたりもすれば、あるいは研究の手ぬるさを批判されています。ですが丸山の著書というは、今でも学ぶべき政治的なリアリズムというものをしっかりと提示しています。そしていまのpost-truth時代において、もう一回考えなくてはいけない、超国家主義的なものの批判として、いまの日本政治を分析していく上で、最も有効な武器を我々に与えてくれます。なので丸山から、我々は今日いろいろな概念を学んで、その概念から現実を分析して、どういう戦い方ができるのか、つまりただ知識を蓄えるだけのみならず、現状を変えていくための実践知としての学問というものを提示してみたいと思います。

 学問をやっていると、もちろん専門というのがあるわけです。私は専門として政治学と国際政治の両方やっておるのですが、貫くものは民主主義論という一本のテーマがあるわけです。もちろん民主主義論だけをやっているわけではなくて、「本店」が民主主義論だとすると、丸山の言葉を借りれば「夜店」としてですね、保守主義論があったり、美と政治であったり、社会運動論であったり、あるいは文化批評があったりするわけです。

丸山は教養を武器とした最後の世代

 そういうわけで私はこの前もプリンスというアーティストが亡くなったときに、彼の生涯を美学の方から追悼論文の寄稿を『文藝』という雑誌に頼まれて、書いたりする。こっちが「夜店」というやつなのです。こうした知識人の先達である丸山眞男という人は、自分自身の専門が徳川の政治思想ですから、自身の専攻を「本店」、そしてそれ以外の文学評論や政治評論、やや精度は下がるもののクラシック評論であったりとか、あるいは様々な闊達な文章を「夜店」という形で自由闊達に展開していった。代表的な戦後民主主義の知識人であり、まさに教養というものを一つの武器にした最後の世代だったと思います。

 まず若き日の丸山から入りましょう。丸山の生まれは1914年でして、37年に東大の法学部を出たあと助手に採用されて、40年には助手論文を完成させて、助教授に昇進しています。しかしここで、二等兵として教育召集されるわけですね。この前の十五年安保のときに、慶応義塾大学の学生さんが「僕はエリートだから招集なんかはされないよ。徴兵されないよ」とのんきなことを言っていましたが、十五年戦争のときは、丸山ですら、東大の助教授ですら招集されるという時代があったわけですね。こんなことも振り返りながら考えてみたいのですが、このあたりは、苅部直先生という大変碩学な先生が『丸山眞男-リベラリストの肖像』(岩波書店)という本でお書きになっています。

 ここにおいては、かつて自分が教えた学生や、あるいは教えもしなかったようなまったく無学な人びとに丸山二等兵が殴られる、東大の先生であっても二等兵として殴られるという戦争がもたらす非常に平等的な、むろん丸山にとっては非常に不条理な経験があった。そういう形で、軍隊生活というものはあまりにも悲惨な状況だった。実は一番初めに彼が送られた場所は平壌、ピョンヤンでありました。つまりどういうことかというと、植民地主義の実態というものが、何ら輝かしいものではなくて、恥ずかしいものであったということが赤裸なまでにわかってくるわけです。

 そしてそこで丸山は心と体を病んで日本に戻ってきますが、45年には再び、召集されます。そして広島の宇品に召集で配属され、8月6日には原爆で被爆しているわけです。

 こういう被爆者でもあった丸山にとって、まさに身をもって体験した平和論、そして世界秩序構想みたいなものはどういうものだったのか。あるいは、そういう丸山がどういうふうに冷戦構造の形成や、国家は動くべきかという公準を考えたのか。こういうものを振り返っていきながら、きょうは先ほど申し上げたようなテーマもカバーしたいと思っています。

丸山は国際秩序をどう考えていたのか

 さっそくきょうのテーマ、まさに丸山が国際秩序とか国民国家をどう考えていて、その結果、何がまずいと思ったのかという話から入りたいわけです。皆さんがたぶん丸山と国際政治と聞いて、学ばれている方ですと思い浮かぶのは、1950年に発表された「三たび平和について」であろうかと思います。まさにこれは日本政治において、リベラリストの側の主張だとされたものです。何かというと、それこそ平和問題懇話会、この立憲デモクラシーの会も、これに基づいている部分が多少あります。

 日本が敗戦、そしてGHQの占領を経て、国際社会に戻っていくときに、アメリカならびに自由主義陣営とだけ講和をすればという「片面講和」に対して、ソ連ともちゃんと講和をすべきであるとして「全面講和」を説いた知識人たち。これは当時の大変輝かしい学者たち、清水幾太郎や安倍能成であったり、都留重人であったり、そういった方々と一緒に出した文章です。

全面講和論は理想主義者に対する批判でもあった

 一見すると全面講和というのは、「そんな不可能なことを」と思う方も多いでしょう。どちらかと言えば理想主義な構想として捉えられており、リベラリズムの側じゃないかと思われがちです。しかし、実はこれはいわゆる理想主義者や、世界政府というものができ上がるんじゃないかと期待をしていた新カント派に対する批判でもありました。よりメタなレベルでのリアリズムですね。

 どういうことかというと、当時、最も影響力があった知識人の1人に横田喜三郎という国際法学者がいます。戦後日本の平和主義を説いていた人というのは、戦時中にはずっと弾圧されていて、戦後になって大変意欲的に活動をした国際法学者ですね。横田という人は当時流行していたケルゼン主義者ですので、国内法よりも国際法のほうが重要であって、そして国際法が国内法のように機能していけば、世界政府というものができるだろうし、そうしなければいけないという立場に立った人だったわけですね。存在と当為を後者の次元へと一致させようとする理想主義的な立場です。

 こういう立場からすれば、まず手始めに自由主義の側と片面講和をして手を組んで、そしてその自由主義をあまねく世界大に広げていけばいいんじゃないかという単純な構想が所与だったわけです。他方でこの「三たび平和について」の全面講和論の本当の狙いは何かというと、じつは片面講和論に対しては、自由主義の側とだけ手を結んで、こういった世界政府論を唱えていくことにはくみしません。というのも丸山ら全面講和論者は、将来またふたたび超国家主義やファシズムが出てきたときに、自由民主主義と共産主義が共同でファシズムに対処するという、本来、第2次大戦でなされたようなイデオロギーを超えた人類の敵に対する共闘というのができなくなってしまうのではないかと危惧したわけです。だから実はアメリカを中心とした自由主義だけではなくて、ソ連とも全面講和をするほうが、本来のファシズムを根絶やしにするという目的に照らして、最もリアリスティックだということを説いたのです。一見、理想主義的でリベラリズムの側だとされる「三たび平和について」なのですが、実はけっこう、将来のファシズム再興の可能性に対処すべく、過去の第2次大戦時の共同対処を意識してつくられたものだったというわけです。

 なぜこのファシズムに対する警鐘を鳴らす役割というものを、丸山がここまで重視していたのかというのは、もちろん先ほどの彼が教育召集をされて大変ひどい目に遭ったということ、それはあるわけですけれども、それ以上に彼自身の学問生活の中で、結晶化していった考え方であったと推察されます。これが一番初めに出てくるのは戦後すぐ、46年に書かれた「超国家主義の論理と心理」、そして49年の「軍国主義者の精神形態」であります。

「できる」ことと「すべき」ことの混同

 日本の国家主義というものを丸山は当然、天皇制国家として読み解いていくわけですけれども、ここにおいては、国家権力と先進的な権威というものが「国体」の名のもとに同一化していく。これによって権力と倫理、要するに、「できること」と「すべきこと」の混同がされていったことが問題だったんじゃないかと批判していったわけです。丸山というと「である」ことと「する」ことが有名ですが、ここでは、「できる」ことと「すべき」ことのほうに注目してみましょう。例えば、ここに水の入ったグラスが置いてあるとして、私の手はここまでしか伸びないわけですね。これが「できる」ことです。他方、「すべき」ことというのは、例えば「水を飲まねばならい」とか、「飲みたい」とていう感情があるんですね。感情と物理的な我々の限界というのは一致しないわけですけれども、実はファシズムというもの、超国家主義というものは、自分ができることと、「すべき」ことやしたいことっていうものを混同させる効果があるんじゃないか、と丸山は説いているわけです。そしてそれがなぜ日本において、そのような国全体がファシズムに没入していったのかということを説いていったわけですね。

 実際、もちろんこれは日本だけではなくて、日本やドイツ、その他諸々の国々と比較をして描いたわけですが、なぜ日本が一番そういった没入をしていったのか、そして戦後も天皇制を維持するといったような方向も含めて、なぜこういうことが起きたのかということを説いているのが、これら丸山の主要な二つの論文の主題であるわけです。

(写真撮影:吉永考宏)