皇国日本は権力と倫理が混同される国家だった
2017年05月19日
注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、2016年12月16日に立教大学で行われたものをベースに、講演者が加筆修正したものです。
立憲デモクラシーの会ホームページ
http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/
まず、我々がここで注意しなくてはいけないのは、ナショナリズム一般とウルトラナショナリズムの違いです。我々はナショナリズムというものについては、もちろん悪だと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、これは国民国家形成期に出てきたものですから、ある意味、国民国家としての主権国家からなる体系が国際秩序として規定されている現代においては、避けがたい現象です。もちろん皆さんの中で、自分自身がある種のコスモポリタニズムの側だという立場の方からすれば、ナショナリズムは拒むことができるわけですが、多くの人々は、生きている場所や文化からはそう簡単に離れられないわけですから、ナショナリズムというものは善でも悪でもなく、国民国家形成に伴う必然的な現象であるというのが、了解されていることだと思うんですね。
しかしそれでも、ナショナリズムを涵養している国家同士が認め合い集まって、欧州の国際秩序はでき上がってきた。それを丸山はどういう言い方をしているかというと、「中性国家」という言い方をするわけです。どういうことかというと、宗教改革以後の宗教戦争などで、当然、個人の信仰や道徳といったもの、これがまさに噴出して、カトリックとプロテスタントとのあいだの争いになっていくんですね。あるいはキリスト教共同体内で異端に対する様々な闘争が生じてくるわけですけれども、しかもそれらは血みどろの争いになっていく。
だから個人の内的な領域には踏み込まないで、国家は技術的にひたすら自分たちの主権の及ぶ領域を確定していくことにしようという決めごとが出来上がります。たとえ絶対君主であったとしても、諸個人の内面の部分には踏み込まないという形をつくっていく。そしてそのような相手の内面には立ち入らないで、自分たちの主権の及ぶ領域というものを技術的に確定していきました。しかもそれをお互いに認め合うという形で国内の統治にかかわる対内的な主権と、それを相手にも尊重するという形で各国の独立性という対外的な主権の原則という技術の下に、主権国家体制はできあがった。内政不干渉義務などは、わかりやすい例ですよね。これがヨーロッパの近代国家、中性国家的なものであると。
では日本はどうだっただろうのかと、丸山は問いを立てるわけですね。明治維新後の日本というのは、まさに、国家主権の技術的な側面、あるいは中性的な側面というものについては、実はかなり無視をしていたんじゃないかと。さらには、ずっと過去のヨーロッパ秩序を見ていく中で重要なギルドであったり、教会であったりといった中間団体が、日本では強くはない。ほぼないともいえる。あるいは、維新の過程で根絶やしになっている状況もあったと。
そういう市民社会の伝統もない中でどうなっていったのかというと、まず明治14年(1881年)あたりにエドマンド・バークの保守主義なんかを伊藤博文側近だった金子堅太郎が『政治論略』(忠愛社)というタイトルで翻訳しだして、それが貴族院のなかで回覧されるようになっていく。そういうふうに官製の国家保守主義というのができあがってくるわけですね。そのなかでは、全然、中性的な国家の性格なんていうものはほぼ規定していない。
実際、男女平等が達成されるのは戦後なわけでして、こういう個人をちゃんと尊重するといったような、近代社会の道徳的な側面というものがなかったんじゃないかということを丸山は説いているわけです。
そこで何が問題になってくるかというと、これは「日本ファシズムの思想と運動」のなかで言っているんですが、要は自分の個人的な事柄、私事の私的な性格というものが認められない社会が出来してしまう。どういうことかといえば、まさにパブリックなものとプライベートなものというときに、プライベートなものがパブリックなものに優先するというのが本来の近代社会なわけですけれども、公(おおやけ)の私(わたくし)に対する優位、すなわちパブリックなもののほうがプライベートに優先するという社会になってくるわけですね。
しかしこれは我々のように、パブリックなものよりプライベートなものを大事にする側からすれば、
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