2017年06月07日
前回、1909年に伊藤博文を暗殺した安重根の「東洋平和論」を取り上げました。
実は、彼が伊藤暗殺の理由として強調しているのは、驚くべきことに、「明治大帝は日中韓、東洋の平和を言っているではないか。伊藤はその意に反している」という点でした。つまり、安重根から見ると、伊藤博文は「玉」の横にいる奸臣である、と。だからそれを排除するというような理屈だったのです。
もちろん伊藤博文の果たした役割について、日本の近現代史的に評価できる点は少なくないでしょう。伊藤自身は、明らかに桂太郎や山縣有朋ら「急進派」と違って、必ずしも韓国併合を望んでいませんでした。むしろ、長州藩や土佐藩、薩摩藩出身者を中心とした当時の明治政府の中には、「植民地」の拡大をめぐって意見の対立があったのです。
それゆえに、伊藤暗殺をめぐる韓国側の歴史的評価の中には、「安重根はターゲットを間違えた」という説もあります。しかし伊藤博文は1905年に設置された韓国統監府の初代統監という、自国の統治権が簒奪(さんだつ)された際のトップだったのですから、「抗日闘争」の標的になって当然というのが、今日の韓国では一般的な理解になっています。
さて、歴史的に植民地化という大きな「過誤」があったとしても、私は、新しいアジア主義について考える際には、やはり「日本列島と朝鮮半島の連携」が、まず土台になければいけないと思っています。
前回述べたように「脱亜論」の福沢諭吉でさえ、初期段階には日韓連携を考えていたのです。1893年に「大東合邦論」を発表したアジア主義者の樽井藤吉も、西洋列強に対する防衛とアジア復興のためには「まず日韓連携」と訴えました。つまり、東洋は日韓が連携することによって初めて、西洋に対する一つのオルタナティブ(代替物)に成り得るというのです。
また、山縣有朋らも朝鮮半島を利益線、あるいは死活的な生命線と考えていた点では、アジア主義者たちと同じかもしれません。こうした考え方は現在の日本のパワーエリートの中にも牢固としてあるのではないでしょうか。
アジア主義は「革命の輸出」だったと前回述べました。それと同時にアジア主義は、いわば「対抗原理」でもあるのです。それは、日本が欧米を中心とした国際秩序の中でうまくいかなかったときに、常に日本の中で呼び出される、ある種の「理念」と言えるものなのでしょう。
その理念は日清戦争・日露戦争を経た満州進出、韓国併合でも呼び出されました。そして辛亥革命によって清が中国となり、やがて第一次世界大戦が起きたときには、大隈重信を中心とした対華21カ条要求というかたちでも呼び出された、と言えるわけです。
しかし、とくに日露戦争以後の日本は、すでに典型的な帝国主義の道をさまよっていました。そのために韓国でも中国でも――もはや朝鮮半島に韓国という国はなくなっているのですが――日本を組み入れたかたちでのアジア主義は急速に冷めていきます。
そして1930年代、日本を盟主にしたアジア主義という理念がより明確に呼び出されます。軍部は日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」を唱え、1932年に満州国をつくりました。しかし、それも破綻して、やがて敗戦という結末を迎えます。
戦後、こうした理念=アジア主義が消えたかというとそうではありません。その残滓は日本・韓国・台湾という「反共産主義同盟」となって、再び蘇ったと思うのです。
そのキーパーソンは岸信介でした。
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