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[39]戦後72年。沖縄慰霊の日の埋まらない溝

金平茂紀 TBS報道局記者、キャスター、ディレクター

沖縄戦没者慰霊式典に臨んだ右から安倍晋三首相、衆参院議長ら=23日午後0時55分、沖縄県糸満市20170623沖縄戦没者慰霊式典に出席した安倍内閣の大臣、衆参院議長たち=2017年6月23日、沖縄県糸満市

6月20日(火) 昨夜のNHK『クローズアップ現代+』で、加計学園問題に関する萩生田光一官房副長官発言の文科省内部報告文書の存在が新たに明らかになったという報道があった。僕は見ていなかった(那覇へ向かう機中にいた)ので、いろいろと調べてみたら、これは報道価値が十分にあるものだった。とても面白い。何となく、『クロ現』頑張れ、というような気分になってしまった。国谷裕子さんが去った後の時間帯移動後、若手女性キャスターの日替わり露出番組の惨状を目にして、すっかり見る気をなくしていたのだが、こういう放送を出そうという人がまだ生き残っている。前川喜平前文科事務次官のインタビューをボツにしたストレート・ニュースの人々とは大違いだ。現場は頑張っている人がいるのに、エディトリアル(編集)部門で潰す。テレビ局ではよくある風景だ。

 那覇は終日、雨。沖縄本島中部・北部では大雨の被害も出ている。22日の大浦湾ダイビングは無理か。Sディレクターが精力的に動いていて、夕刻、もろもろ打ち合わせ。大田昌秀さんの沖縄国際平和研究所の居室は生前のままの状態だという。あと、問題は天候だ。

 ぽっかりとできた空き時間に東海テレビ制作のドキュメンタリー映画『人生フルーツ』をみる。すばらしい映画だ。これは希望だ。本当にみてよかった。遅すぎるかな。旧友会雑誌用に、丸野明夫さんの追悼文を書く。

大田昌秀さんの「刻印」に圧倒される

6月21日(水) 朝7時にホテルを出て、キャンプ・シュワブのゲート前へ。小雨が降っている。沖縄タイムス、琉球新報の記者以外、マスコミは全くいない。そういう状態がずっと続いているのだ。機動隊の排除の仕方が以前に比べて乱暴になったとの声を現地で聞いた。座り込み1081日目のプラカード。今日は集中行動日なので反対運動の人が100名ぐらいはいたか。辺野古の護岸工事のための土砂を積んだトラックの搬入は反対運動の人数の手薄な日時を狙って行われるのだという。

 午後、那覇に戻って、沖縄国際平和研究所の内部を撮影。大田県政の元知事秘書・桑高英彦さんにガイドをしていただいた。実際、大田さんはこの研究所内に入院直前まで文字通り「暮らして」いた。琉球大学教授時代からいつも座っていた椅子と机。簡易ベッド。書庫と資料室。蔵書、メモ、資料、写真などの量の膨大さと実際に読んだ跡が刻印されている事実に圧倒される。大田さんの死去の3日前に同研究所の藤沢さんに託して病室に届けられた僕の手紙が机の上に未開封のまま置かれてあった。死後、病室から持ち帰っていただいたのだった。

 それにしても蔵書の量の膨大なことと言ったら。蔵書には読んだ跡が残っていて、おびただしい数の附箋がまるで花びらのように本の上部に咲き誇っていた。竹中労の『琉球共和国――汝、花を武器とせよ!』という懐かしい本があったが、まさに附箋だらけで、ページを開くと赤ペンで傍線がびっしりと引かれていた。資料の入ったボックスには「独立論」と書かれたものが多いのが印象に残った。本棚に拙著『沖縄ワジワジー通信』が2冊あった。今から4年前に行った大田さんとの対談も収録されている本だ。居室にいるうちに本当に大きな存在を失ったという実感が胸に迫ってきた。夜、久しぶりに大工哲弘さんと歓談。あしたの天気が気にかかる。

僕らを凝視する警備艇

6月22日(木) 朝、ホテルのカーテンをあける。晴れている! 心配していた天気は回復していた。午前9時に名護の汀間漁港に到着。水中カメラマンの長田勇さんと再会。船を出してくれるMさんとも合流。インストラクターのAさんの到着が午前11時以降だというので、船で辺野古海上を下見。K9護岸工事地区。フロートで囲まれた立ち入り制限区域の範囲が以前に比べて格段に拡がっている。大型クレーンを積んだ台船や、掘削機が海上にみえる。護岸でトラックから採石を投下している光景が目に入る。

 防衛局の警備艇が盛んに僕らにマイクを使って警告を発してくる。

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