シビリアンコントロールを理解し、民主主義の原則にそって自衛隊を統率せよ
2017年07月27日
防衛大臣の職責はすこぶる大きい。なにを今さら、と思われるかもしれないが、北朝鮮の核ミサイル危機、中国の海洋進出、国際テロの拡大などを背景に、昨今、一段と重要度を増してきた日本の安全保障の担当者として、その役割と責任が今一度、見直されてしかるべきではないかと、あらためて痛感するのである。
そんなことを考えたのは、稲田朋美防衛大臣のあまりにお粗末な言動を、たて続けに目の当たりにしたからだ。彼女はいったい、何を思って、大臣の職務にあたっていたのであろうか。
近く予定される内閣改造で、防衛大臣は交代するのは間違いない。その前に、そもそも、防衛大臣には何が期待されるのか。その役割と責任はどこにあるのか、憲法を視野に入れつつ、三点に絞って論じておきたい。次の防衛大臣が、その職にふさわしい人かどうか判断する参考になれば、幸いである。
第一に、防衛大臣の資格要件とは何か、考えたい。
結論から言うと、シビリアン・コントロール(文民統制)の意味と役割を、十分に理解していることにつきる。
戦力の不保持をうたう日本国憲法の下で、本来、軍事力をもつ「実力組織」は不在であるはずだ。ただ、憲法は自衛権まで否定はしていないので、必要最低限度の「防衛力」を担うという強引な解釈づけをして、法律で自衛隊が認められている。憲法改正論議のなかで、第9条とのからみで自衛隊の位置づけをめぐる論争が繰り返されてきたのは、それゆえである。
その自衛隊がいま、専守防衛を掲げ、日本の防衛に専念しているかと言えば、かなり疑問だ。海外派遣は相次ぎ、アメリカとの合同軍事演習にも積極的に参加する。海外で一定の戦闘を可能にする、いわゆる「外征型」の正面整備も充実させてきた。
最近では、「いずも」に代表される排水量2万㌧を超えるヘリ空母型護衛艦や、本来は航空母艦を護衛するイージス艦「こんごう」「きりしま」など、世界的水準の戦闘艦まで保持している。アメリカ軍の一翼を担う、実力組織への変貌ぶりが際立っている。
ただ、自衛隊を支持・容認する国民は少なくない。その理由は、国土の防衛というよりも、東日本大震災をはじめとするたび重なる災害支援への評価というのが、実態である。
気掛かりなのは、そうした自衛隊のあり方に不満を募らせ、憲法による規制の窮屈さを吐露する自衛隊制服組幹部による、政治的とも受け取れる言動が昨今、目立つようになってきたことだ。こうした自衛隊の動きを危惧する立場から、繰り返し議論されるのが、「文民統制(シビリアンコントロール)はほんとうに機能しているのか」とする問いである。
文民統制は、強大な実力組織である自衛隊が、国内政治への圧力組織とならず、国是である民主主義と共存していくために、案出された。具体的には、文民統制の原則を十分に理解した文民(憲法は第66条で、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならない、と定めている)が防衛大臣の職責を担い、民主主義社会の原則に従って、自衛隊という実力組織を統制する形式が整えられた。とすれば、防衛大臣は当然ながら、文民統制がなんたるかを十分に会得していなければならない。
ところが、昨今の防衛大臣には、そうした理解があまりにも不足しているようにみえる。
たとえば一川保夫議員(当時、民主党)は2011年9月2日、防衛大臣の認証式前、記者団に「安全保障に関しては素人だが、これが本当のシビリアンコントロール(文民統制)だ」と述べ、文民統制への無知をさらした。15年2月27日には、自衛隊出身の中谷元防衛大臣(自民党)が、文民統制が案出された歴史の経緯について問われ、「自分は戦後生まれだから分からない」との珍回答で失笑をかった。最近では、国会での答弁で、武力行使と武器使用の違いについて意味不明な説明を続け、都議選に際しては自衛隊・防衛省の名前を出して投票行動を呼びかけた稲田防衛大臣。
民主主義社会のなかで、実力組織の自衛隊をしっかり統制し、有用な組織としていくために案出された文民統制への理解不足。あるいは、自衛隊の政治利用をいさめた自衛隊法などの法律の存在を無視したかのような言動が、国民にどれだけの不安感を与えたか。政治家たるもの、繰り返し自省すべきであろう。
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