植民地支配の受容と反発
2017年08月09日
韓国が大きな転機を迎えた2017年から、ちょうど100年前の1917年11月14日、朴正煕は慶尚北道南西部の亀尾(クミ)市に7人きょうだいの末っ子として生まれた。出産当時、母親が45歳と高齢だったこともあって、彼は一層大事に育てられたという。また、実家はいわゆる貧農に位置づけられており、父親は両班(リャンバン、旧貴族)の出であったものの、収入は母親の農業に大きく頼っていた。
当時、韓国は日本の植民地下にあり、旧来の農村社会は土地調査事業によって大きく再編されていた。公有地と見なされていた場所の所有権をめぐってしばしば対立が起き、慣習的にその土地の耕作者とされていた農民の一部は仕事を失った。
そうした者の多くが日本を含めた大都市に仕事を求めるようになり、同時に朝鮮半島内における日本人の居住も一層進んだ。つまり、韓国の地域社会が従来有していた秩序が崩れる中で、それに反比例するように日本の影響は大きなものになっていったのである。
そして、日本が支配を強めていくにつれ、韓国人の不満は当然のように高まっていった。ヨーロッパ諸国がアジアの国々を植民地にするのとは異なり、江戸時代には使節団を差し向け、国内に居留地を設けるなど、対等な関係にあった日本の植民地になることは韓国にとって受け入れ難いものであった。
一方で、日本も現地での反発を認識していたため、韓国に渡った日本人官僚は警官や兵士ばかりでなく、教員ですらサーベルを身に付けることに代表される強圧的な支配、いわゆる「武断統治」を行なった。
そうした強硬な手法は、中世であれば渋々ながら受け入れられたかもしれない。しかし、時代は20世紀に入っていた。第一次世界大戦が1918年に終わり、その後のベルサイユ講和会議において、それぞれの民族が自らの政治方針や帰属を決定していくという「民族自決」の方針がアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンによって主張されたのである。
その情報は虐げられていた各国の民族運動に火を点けることとなったが、その一つが1919年3月1日にソウルのパコダ公園(現在のタプコル公園)での独立宣言に端を発した三・一独立運動である。それは当時の韓国人の「圧政への抵抗」や「自治への願い」といった思いの発露であった。
その運動の発火点が日本であったことも、当時の韓国におけるエリート層の状況を表している。
著名な民族運動家が宗主国あるいは支配国に留学し、その思想的基盤を確立することは珍しくない。例えば、イギリスに留学し弁護士となったマハトマ・ガンジー、日本に留学した周恩来、フランスで暮らしイギリスに学んだホー・チ・ミン等々の名前が浮かぶ。
そして、1910年代の東京には数百人単位で韓国人留学生が学んでいた。その有志が母国独立の願いを込め、1919年2月8日に「二・八独立宣言」を採択したのである。その会場となった在日本韓国YMCAには、現在も同宣言のレリーフが飾られている。宣言の後半部分を見ると「今日より正義と自由とにもとづく民主主義的先進国の範に従い、新国家を建設するならば、わが建国以来の文化と正義と平和を愛好するわが民族は必ずや世界の平和と人類の文化に対し貢献するであろう」との文面がある。
換言すれば、その独立宣言には国際的な動向、あるいは民主主義を背景とした韓国人の強い意志が込められていた。韓国人留学生によって起草された文面は日本政府による弾圧を受けつつも海を渡り、日本での独立宣言から約3週間後、三・一独立運動の発端となる「独立宣言書」に連なっていく。その一言一言は朝鮮半島の人々の胸を打ち、彼らの思いは燎原の火のごとく半島中に広がった。
朝鮮半島を覆った市民の思いも虚しく、2カ月ほどにわたった独立運動は数千人の犠牲者を出して失敗に終わる。しかし、韓国人の強い反発を改めて知った日本政府は、朝鮮半島の支配形態を「武断統治」から徐々に「文化統治」へと切り替えていった。また、皇室への忠誠に基盤を置いた教育や、日本語の公用化といった皇民化政策も同時に行われ、思想や制度の面で植民地化は一層進むこととなった。そうした時代の中で、朴正煕少年は成長していったのである。
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