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[6]革命政権と5・16クーデター

金恵京 日本大学危機管理学部准教授(国際法)

1961年11月11日、朴正煕(中央国家再建最高会議議長が来日した1961年11月11日、朴正煕国家再建最高会議議長(中央)が来日した

期待外れに終わった革命政権

 独立運動を海外で長年続け、かつて「建国の父」と称された李承晩は、韓国市民の強い意思によって以前とは異なる形で母国を追われることとなった。改めて彼の統治を検討してみると、デモの引き金になった選挙や政治における不正、および各種の疑惑が大きな失点になっていることは間違いない。しかし、後の朴正煕も情報機関を用いた弾圧や不正選挙、ライバルへの暴力行為などを行い、国際的な非難を招いた。また、反共を強く打ち出す姿勢にも大きな違いはない。

 しかしながら、現在に至るまで朴正煕への評価は李承晩に比べ明らかに高い。もちろん、個人的な資質上の問題もあると思われるが、やはり最も大きいのは経済政策の成果であろう。李承晩が大統領を務めた時代、韓国は経済的な浮上のきっかけを掴(つか)めなかった。一方で、朴正煕は韓国を先進国へと導く道筋を建てた。自らの生活が向上していった実感によって、朴正煕は今もその統治時代を知る世代に強い郷愁を感じさせる存在となっている。

 こうした評価は、李承晩政権を倒した後の、民主党政権に対しても同様に向けられた。彼らは民主主義を求める市民の怒りを味方に政権を移譲させたものの、そこには明確な将来へのビジョンは無かった。大規模なデモを行えたとしても、指導者が将来への青写真を持たなければ、不満と戸惑いが残るだけに終わってしまう。

 そして、当時指導者の役目を担うことになったのが、4月革命から3ヶ月半が経過した後に大統領に就任した尹潽善(ユン・ボソン)と首相に就任した張勉(チャン・ミュン)であった。新たに改正された憲法によって、大統領は形式上の元首となり、責任内閣制の下、首相が最も大きな権力を担うとされた。こうした権力の位置づけは、70年の韓国憲政の中で、この時期だけのことである。

 植民地期の韓国で有数の資産家の家に生まれた尹潽善は日本、中国、イギリスに留学し、地主階級の息子として40代後半まで明確な責任の無い立場で過ごした。しかし、そうした地盤や人脈が彼を建国後最初のソウル市長や、ソウル中心部(鍾路甲区)選出の国会議員といった地位にまで押し上げていく。

 一方、熱心なカトリックへの信仰をもった中産階級の家に生まれた張勉は、大学時代からアメリカへ留学する国際派として鳴らし、朝鮮戦争の際には駐米大使として国連にて韓国の立場を述べ、国連軍の出兵を促す上で大きな役割を果たした。

 そして、李承晩が大統領として過ごした最後の4年間、張は野党選出の副大統領としての地位にあった(当時、大統領選挙と副大統領選挙は別々に行われていたため、野党の副大統領も存在した)。しかしながら、張は政権内で冷遇され、李承晩大統領が背後で関与していたとされる発砲事件の被害を受けるなど、苦難の時を過ごした。

 1960年以前から韓国で重要な位置を占めていた二人であったが、相互に信頼関係は築けず、人事等の対立を繰り返すうちに4月革命から1年が経過してしまった。

 本来であれば、民衆の意志で大統領を追放するほどの革命がなされた後であれば、政治が前政権の悪弊を駆逐し、希望に溢れた政治が行われるというのが理想的な姿であろう。しかし、当時の民主党政権では「旧派(尹潽善側)」と「新派(張勉側)」との対立に精力が注がれ、政治改革や充実した経済政策が満足に行われることはなかった。そのため、国民の熱意は冷めてしまい、対立を重ねた政治家も疲弊してしまったのである。

5・16クーデターと朴正煕

 そうした中で、1961年5月16日に朴正煕らに率いられた3500人の部隊がソウル市内に突入し、クーデターを起こす。

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