2017年09月12日
朴正煕が自らの政体をどう捉えていたのかという点について考える時、1963年の大統領選挙直前に出版された著書『国家と革命と私』は大変興味深い。クーデターを起こして実権を握った2年半の評価を問う選挙を間近に控えていたことから、彼が韓国国民に対して何をアピールしたかったのかが見えて来るためである。
本来であれば、クーデターの正当性や必然性を滔々(とうとう)と述べていく構成がとられると思われるかもしれないが、そうした事項に関しては最初に数ページ言及されただけで終わってしまう。その後は、経済書かと見まがうほどに、各種のデータが示され民主党政権が成し得なかった経済成長を自らが達成したことが強調されている。そうした記述がなされた後に、クーデター自体に対しても、「経済的な使命感によって起こされた」と述べていることは象徴的であった。
また、同書の中盤に前回紹介した「革命公約」が提示されているのであるが、そこではクーデター当時に出されたものから民主勢力への政権移譲、および軍人業務への帰還という項目は削除されている。
その点に関して朴正煕は、旧来の政治家の政治活動を解禁した直後から、クーデターを起こした理念や政策に対する非難が政治家から行われ、進行中の施策の停滞を引き起こしたとして、朴正煕自らが政治に関与するしかないと決意したと主張している。この論法は、後述する1972年の維新クーデターの際の朴正煕の主張に繋がっていることをあらかじめ注記しておきたい。
クーデター後の「2年間の報告」という章でも、旧来の政治家に対して「病原菌」あるいは「旧悪の清掃」といった文言を用いて非難している。そして、政治活動浄化法によって政治活動を禁止したことは、彼らに反省の機会を与えるものであったと主張する。また、その後は前章同様に「第一次5か年計画」の報告ならびにデータが続き、経済的成果が強調されるといった構成がとられている。
そして、自らの政治的方針については、「反共」であることが折に触れて強調されている。特に、韓国政治の混乱が北朝鮮および国内の社会主義勢力の拡大を招き、1961年のクーデター直前に韓国の学生が主導する形で北朝鮮の学生との間に共同委員会の形成を提起した動きがあったことが非難の対象となっている。
一方で、朴正煕が採用した経済政策には、社会主義の代表的手法である計画経済が取り入れられ、後述するように財閥企業も政府の管理下に置いていた。政治的主張とは相矛盾するような経済政策であったが、その成果は明らかなものがあり、韓国の経済成長率は第一次から第二次までの5か年計画が行われた1962年から71年まで年平均8.6%を記録し、その後の経済発展の基盤を作った。
こうした経済的な手法や自身の経歴から、朴正煕には戦前の満州国の影響が指摘されることも多い。満州国で総務庁次長を務めた岸信介も反共の立場を取りつつ、計画経済を導入するなど満州国の全体像を設計し、同国を「自らの作品」と述べていた。事実、戦前の日本で高等教育を受けた者の中では、ロシア革命で現実のものとなった政治経済理論である社会主義は賛成・反対の立場は別にして、内容自体は教養として常識化していたのである。
東京帝国大学に学び各種官庁業務を歴任した岸にとっても、満州国軍軍官学校や日本陸軍士官学校で学んだ朴正煕にとっても、その手法を取り入れることに大きな抵抗はなかった。ある意味、朴正煕にとっては「計画経済が社会主義的手法であるか否か」ということは大きな問題ではなく、「貧困に喘ぐ韓国国民にとって何が有益か」という視点が優先したのである。それは20代から30代にかけての紆余曲折の中で、人生を切り開いていった朴正煕の生き方に符合している。
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