憲法9条の3つの命運とは~「砂川判決」から考える
砂川判決から見えてくる「最終的に判断するのはシビック・アクティビズム」という刻印
駒村圭吾 慶應義塾大学教授
憲法発布71年目の報告
憲法公布71年目にあたる本年11月3日、私は米国マサチューセッツ州ケンブリッジで過ごした。ハーヴァード大学ライシャワー研究所で報告するためである。
同研究所のヘレン・ハーデカー教授(日本宗教社会史)が長年にわたり同僚たちと地道に続けてきた日本の憲法改正動向に関する研究プロジェクトに、8年前の留学以来、私もかかわってきた。その流れで、 The “Constitution” of the Postwar Japanという3年間限定のプロジェクトをハーデカー教授と立ち上げ、過去2回、慶大三田キャンパスでワークショップを持った。最終年にあたる今年は、出発の地であるハーヴァードに帰ってワークショップを開き、11月3日のこの日、1年遅れで日本国憲法に古希のごあいさつをしよう、とこういう趣向である。
日本の判例中、屈指の重要判決
このプロジェクトの邦訳は「戦後日本の“かたち”」となっている。Constitutionの原義(体格、骨格、基本構造、基本性格など)にならうとともに、故司馬遼太郎氏にもあやかってこの邦題にしたのだが、その学問的趣旨は、法律学としての憲法論のみならず、歴史学・社会学・宗教学・政治学などのプリズムを使って、戦後日本を分光してみようというものだった。異なる学問からすると何が戦後日本の基本構造に見えるのかを、明らかにしてみたかったからである。
このような趣旨のもと、参加者中、数少ない法律学専攻である私は今回、国民主権と市民社会を論題とするセッションに割り当てられた。「SEALDs(シールズ)」をはじめとする最近の動きについては、私の次に登壇される上智大学の中野晃一教授が話されることになっていたので、私の話は過去のケースで、かつ法律学らしく判例がある分野で、しかも改正が取りざたされている憲法9条にかかわる題材がいいだろうと考えた。
そうなると、取り上げるべきは、1955年に始まった砂川闘争と59年の砂川判決をおいて他にない。これこそが日本の判例の中でも屈指の重要判決であり、かつ戦後、憲法9条がたどる命運を決した基本判決だからである(砂川判決については近年、政権与党の幹部によって誤読・曲解されたり、再審請求が本年11月15日に東京高裁によって棄却されたり、ふたたび時代のフロントラインにひっぱり出されている観がある)。
以下は、砂川判決の考察を中心とした「9条の命運」と題する当日の私の報告の概略であり、古希を越えることのできた日本国憲法に対する私なりのごあいさつである。
砂川事件とは何か?

立川基地内民有地収用の測量の警備に出動した警官隊と有刺鉄線のバリケード越しににらみ合う反対派労組員、学生、地元民=1957年7月8日東京都北多摩郡砂川町
まず、砂川判決のもととなった砂川事件の概要について述べる。
1955年、東京都下の立川市に展開されたアメリカ空軍基地の拡張工事は、同市砂川村を侵食しつつあった。これに反対する地元住民(とりわけ農民)、労働組合員、学生の抵抗運動は徐々に激化し、ついに抵抗者たちは境界を乗り越え基地内に足を踏み入れた。逮捕された者たちの立ち入り・不退去は、通常の軽犯罪法よりも重い刑事特別法上の罪に問われた。この刑事特別法は日米安全保障条約に基づく行政協定に由来するものであった。被告人はこの安保条約が憲法9条に違反することを理由に無罪を主張した――。
1959年3月に下された第一審。東京地裁の伊達秋雄裁判長は、駐留米軍は憲法9条がその保持を禁ずる「戦力」に該当し日米安保は違憲であるとして、被告人を無罪とした。のちに「伊達判決」と固有名で呼ばれることになるこの判決に政府はあわてた。翌年1月に安保条約の改定を控えていたからである。
検察による異例の跳躍上告により、事件は最高裁に係属する。そして同年12月16日、最高裁は「統治行為論」を使って安保条約に対する明確な憲法判断を回避し、原判決を破棄した。