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憲法の包容力よ再び

誰もが当事者の立憲的改憲論

倉持麟太郎 弁護士(弁護士法人Next代表)

●カミからカチへ

自民党の憲法改正推進本部の全体会合であいさつする細田博之本部長(中央)=2017年12月20日午後、東京・永田町の党本部自民党の憲法改正推進本部の全体会合であいさつする細田博之本部長(中央)=2017年12月20日午後、東京・永田町の党本部

 憲法改正や憲法論義が盛り上がりつつある、とされている。一方で、やはりまだまだ日常的な問題として人々の間で憲法が語られる状況であるとはいいがたい。法律家ではない知人と話していても、憲法改正や憲法論議について「難しい」「私たちの生活とは遠い」といった理由で、敬遠されがちである。

 これは、憲法が抽象的で難解な法であるからということだけが理由なのではない。我々の社会の中で生起している生の事象、すなわち、より細分化された道徳観や性への意識、格差の拡大、真の意味で個人の尊厳に配慮した「働き方」へのまなざし、排除・画一化とヘイトスピーチ、窮屈な監視社会化、歪(ゆが)んだ報道と報道の独立性、弛緩(しかん)した権力に接近するための情報の開示、世代・性別・人種・地域といった多様できめ細やかな民意の反映、軍事力の膨張、種々の「違憲状態」の放置……といった社会的病理現象及び我々の現実の生に対して、憲法が現実的で豊かな回答を与えてこなかったことが大きく起因していると考えられる。

 すなわち、我が国での憲法問題といえばまずもって9条のみに焦点が当てられ、「日本国憲法(典)」という「紙」を一文字変えるか守るかの議論に終始してしまう。

 憲法という法規範自身は、本来、まったく相いれない価値観を大切にしている個人がそれぞれ「自分らしく生き」ながら「共生」を図るというある種の矛盾を克服するための極めて包容力の高い寛容な法規範のはずである。しかし、一たび憲法が議論の「対象」になると、激しい思想的分断を生み、人々からも遠のく。日本国憲法が、戦後日本の公論・思想空間の分断を助長したといっても過言ではない。

 現代において憲法の包容力を再生させるためにも、この分断を超え/治癒する、誰もが当事者の憲法論議を育んでいかなければならない。

 憲法の本来の包容力の源泉は、憲法を憲法たらしめている自由や権利、そしてそれを保障するための厳格な権力統制の仕組みといった普遍的価値(≒立憲主義)である(日本国憲法前文、13条、97条)。憲法論議も、この価値を社会の中で実践するにはどうすべきか、という最優先課題からスタートすべきである。重要なのはこの憲法的な価値を守ることであって、「憲法典」という今ある成文憲法を守ることではない。

 これは、成文の憲法典を持たないイギリスでも「憲法改正」論議があることを考えれば、「憲法改正」=「憲法典改正」ではないということは容易に理解できるのではないだろうか。改憲論議も、いわゆる憲法が掲げる諸価値や権力統制を強化するために改正が必要か否かという視点で進めていくべきである。

 この視点が「立憲的改憲」という視点である。

●憲法改正議論の思考の順番

 憲法も国家統治のための「法」なのであるから、過度の思い入れ等の情念や、詩的・叙情的な創作意欲等で改正の是非等を議論すべきでないのはいうまでもない。

 国の政治の在り方や、これを構成する市民社会の自由及び権利について、どのような制度設計をすべきなのか、まずはこの大枠で大上段の〝ビジョン〟が欠かせない。個人の権利の拡充、権力均衡の回復、熟議民主主義の再興、等の大きなテーマや問題意識の設定から出発しなくてはいけない。そして、テーマやビジョンの設定こそ、政治家の仕事である。

 この、1)政治哲学や国家ビジョンがあるからこそ、2)そのテーマを実現するためにどのような改正項目が挙げられるかが俎上(そじょう)に上り、3)挙げられた改正項目をどのように変えるかの提案から4)具体的な条文案へと落とし込まれる。

 このような思考の順序をたどれば、「憲法改正論」として議論すべきは、「憲法典」に限られない。いわゆる「憲法附属法」(法律や規則も含む)も含めた、壮大な「憲法改革」とでもいうべき一大工事となる。憲法を頂点とした法秩序全体と現実の社会との間を行き来し、これらを横断的に見渡した構想を掲げることこそ、「憲法改正」構想である。

●現代社会の抱える問題に憲法で「横ぐし」を入れ、光をあてる

 「個人の権利保障の拡充」というテーマでは、その実行力の担保として後述の憲法裁判所の創設や、プライバシー権、知る権利、LGBTの権利についても議論すべきだ。

 「権力統制・権力均衡の回復」としては、9条を筆頭に、国会権能の強化と行政府の統制も議論せねばならない。先般問題となった委員会での質問時間の配分問題も、規則レベルだが、「改憲論議」の枠内で行うべきである。議会の不文律で重要なものは明文化すべきだ。2008年フランスの改憲議論や、近時のドイツでの議会改革の改憲論議でも規則改正や明文化の議論が活発に行われている。

 また、日本固有の「権威と権力」の均衡を担う皇室制度についても、改憲論議の中心的課題であり、女性宮家の創設及び女性・女系天皇について皇室典範の改正論議は、改憲構想の中で語られるべきである。

 「熟議民主主義の再興」では、参議院改革、地方自治制度、選挙制度、国民投票制度(国民投票法を含む)の再考、外国人の地方参政権等、多様な民意の反映のための制度構築の見直しをしなければならない。

 また、「主権の回復」として、日米地位協定の改定も9条改正とセットで改憲論議に含まれるだろう。

 このように、「憲法改正」の議論は、憲法典から規則まで(タテ)、そして今まで所管省庁や各利益集団のテリトリー内のみで論じられていた問題(ヨコ)に「横ぐし」を入れ、我々個人一人一人、そして市民社会の隅々に光を当てるものとして再定位されるべきだ。

●私たちの檻は狂暴なライオンを入れておける代物か?

 現在、立憲主義を極めて平易化した解説で、権力をライオン、憲法をその檻に見立てて、暴走してしまうかもしれない狂暴なライオンを檻に入れる(権力を憲法で統制する)のが立憲主義であるという比喩による説明がなされることがある(楾大樹著『檻の中のライオン』)。

 これに例えれば、日本国憲法は、まず、かなり行儀よく暴走しないライオンを想定していた。だからこそ、檻はすかすかで発泡スチロールか段ボールでできており、すぐに壊されてしまうし檻から出ていこうとするライオンを統制することができない。

 ライオンが最も狂暴化する「軍隊」や「自衛権」については、そもそもライオンが無力化されて檻がないことになっているので、こっそり檻を抜け出したライオンの暴走を止められない(9条は安保法制や解釈で集団的自衛権まで認められることを止められなかった)。

 しかし、人々は、檻から狂暴なライオンが飛び出しているのに、そのライオンに対して「檻を出るな!」「檻を大切に守れ!」と叫んでいる。そもそも檻を作った根源的な理由たる「ライオンは暴れる・狂暴だ」という共通理解はどこへいったのか。ライオンは当然暴走し狂暴だからこそ檻を作ったのに、そのライオンの狂暴さをライオン自身に対して糾弾するだけで、檻の脆弱(ぜいじゃく)性の問題には触れない。このままでは、人々及びその自由や権利は立憲主義とともに檻から出たライオンに食い殺されてしまう。

 今こそ檻を強化し、ライオンが出られないような強固できめ細かな檻を一から作り直すべきときではないか。その際、もう一度、その檻の存在意義、檻によって守ろうとしたもの、檻が機能する一番適切なオプション等々、既存の檻にとらわれずに我々の社会に一番マッチした檻を構想すべきである。

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