社会運動を支えたふたつアジェンダが問われる時代。継承か終焉かの分岐点に立つ憲法
2018年01月17日
2018年になった。この2018年には「明治維新150年」と最後のフルバージョンの平成、すなわち「平成30年」が重なる。しかも、日本国憲法施行70年(2017年)と天皇退位(2019年)、そして東京オリンピック(2020年)に前後をはさまれてである。
くしくも、国家の形成に深く関わるイベントが惑星直列的に次々と到来し、締めにオリンピックによる国家的な祝祭があるとなれば、“時代”を人為的に塗り替えてくれるブレークスルーを人々が期待したとしても、あながち不自然ではなかろう。
“時代”が塗り替えられることに伴って、それと一緒に塗り替えられる危険にさらされるのが“正統性”である。“正統性”とは、政治共同体の究極的権威の「連続性」のことを指す。
もちろん、“正統性”の塗り替えはそう簡単ではない。権威の「連続性」を変更するためには、「非連続」をきたすこと、つまり断絶を引き起こすことが必要で、それには「時間の流れ」を人為的に止めるという難事が求められる。
そうした「時間の流れ」を人為的に操作するために編み出されたもの。それが「周年」のカウントであり、「元号」だ。今まさに、それらが一気にやってくる。
周年の記念や改元に際し、しばしば耳にする「時代は変わった」というスローガンには注意が必要である。往々にして、説明や思考をほったらかしにしたまま、変化の受け入れだけを迫る常套句(じょうとうく)として用いられるからだ。とりわけ今のご時世は、よほど注意する必要がある。そのスローガンの背後に、本来はとてつもなく困難な“正統性の塗り替え”がどうも画策されているフシがある。
これに対し、時代に翻弄(ほんろう)される宿命を負う“正統性”を時間の流れから守り、人為的に固定化するものこそが憲法である。憲法もまた、時間の流れを人為的に操作するものであるが、それは固定化を図るものなので、時間を区切り、時代を画そうとする操作とは、元来、相性が悪い。となると、時代の塗り替えが“正統性”の塗り替えをもくろむものであれば、それは必然的に憲法にも及ぶことになろう。
2018年。わたしたちの戦後憲法は、以上のような空気の中にある。
2017年の秋から師走にかけて、憲法問題に関する報告を外国でおこなう機会が2回あった。ひとつは11月に、アメリカのハーバード大学ライシャワー日本研究所において「9条の命運」と題して砂川事件判決について報告した(これについてはWebronzaに寄稿した拙稿「憲法9条の三つの命運とは」2017年11月22日を参照)。
もうひとつは12月で、ソウルの韓国憲法裁判所附属憲法研究院において、「日本国憲法における“憲法改正”と“憲法変動”」との表題の下、ひろく戦後憲政史の概略と改憲問題について報告した。
韓国憲法研究院では、「安倍首相はほんとうに改憲をするのか? 与党内での合意形成そのものが難しいのでは?」と何度か尋ねられた。同じ質問はライシャワー研究所でも受けたが、これに対する私の回答は次のようなものであった。
――安倍首相が「一強」であり続ける理由のひとつに、現行選挙制度が党内批判勢力を生み出さない仕組みになっていること、中央と地方の間の構造的な問題があること、といった制度的要因が挙げられる。この要因はけっこう大きいのではないか。つまり、安倍首相という権力は、熟議や批判ではなく瞬間風速がモノを言う現行政治制度によって作り上げられ、またそれによって維持されているに過ぎず、その限りでは民意の実体と遊離した“裸の権力”と言える。
“裸の権力”は、身にまとうべき“正統性”を求める。“裸の権力”とは、実質的な民主的正統性に欠ける権力だからである。それゆえ、首相は必ず“正統性”を獲得しようとするだろう。それは制度的な帰結である以上、安倍首相固有の問題ではないが、同首相の場合は、“正統性”を批判的熟議の回復によってでなく、戦後憲法という不動の“正統性”に手をつけることによって調達しようとしているのが特徴的である。
だから、安倍首相は必ず改憲を提起する。もっとも公平に言って、それがまっとうにおこなわれる可能性は絶無ではない。だが、現状は、“手をつけること”そのものが目的化され、とにもかくにも既存の正統性基盤を変動させれば勝ちである、というような方向に流れる公算が高い。それは新たな“正統性”の調達ではなく、“正統性”の破壊にすぎない。“裸の権力”は裸のままで居続けることなる――。
このような“正統性への挑戦”は、権力を生み出す現行の法制度と社会基盤がそのままであれば、「ポスト安倍」においても繰り返されるだろう。そもそも今の日本の民主政は、どう贔屓目(ひいきめ)にみても、討議民主政のダイナミズムに乏しいと言わざるを得ない。
圧倒的多数の議席を確保しても、批判と熟議を生み出しようがない制度のもとでは、いったい何が付託されたのかは未知数であり、選挙公約だけが空疎な証文としてふりかざされる可能性がある。そこでは、誰しもが民主的正統性に対する自信など持つことはできない。実は、みんなそれに薄々気がついているのではないか。
本来は、法的正統性と民主的正統性が、法の支配・優位という大枠のもと、緊張した連携と調整を展開するのが立憲政治の筋書きである。後者の民主的正統性が空疎なものになっているのではないかと、みんなが内心自信を持てないでいる現状では、その建て直しを図るのが本筋になるはずだ。
しかし、現実には、民主的正統性の立て直しを追求することなく、より高次元の正統性危機の方が問題だと叫び、憲法を改正することによって正統性の調達を図ろうとする。まるで、そのことによって自らの欠損を補い、気持ちを鼓舞するかのように、である。
実質の欠損を地道に補うのではなく、手続きと数をふりかざして、むしろ一点の欠損も認めない方向に出ようとしている。日本政治で今おこなわれようとしているのは、そういう事態である。「一強」は、空疎な正統性、欠損した自信の倒錯した現れなのかもしれない。
戦後、いくつかの危機に見舞われながらも、日本国憲法という正統性の基盤はそれをくぐりぬけ、まがりなりにも維持されてきた。はたして、それを支えた社会的な意識の「脈動」とはどのようなものであったのか。
脈動とは、戦後の時代精神を牽引(けんいん)した市民運動―とりわけ「9条」と「核」をめぐるそれ―が作り上げてきたダイナミズムのことを指す。冒頭、正統性は時代の変化に翻弄される運命を背負っていると述べたが、原理や規範の普遍的次元がいかにして現実世界に接合されてきたのかを知るには、両者を媒介する市民社会の脈動とそれが育んできた時代精神とに向き合うことが不可避である。
この点に関して、ライシャワー研究所での報告の際、コメンテーターの韓国人研究者から受けた次のような質問が印象的であった。
「今日は日本の最高裁判決について報告をいただいたが、国内的な憲法解釈については理解ができた。しかし、9条問題はもっと国際的な文脈におく必要があるのではないか? あなたのおっしゃるシビック・アクティビズム(civic activism)もそのようなコンテクストで展開すべきではないか?」。
おそらく、事情や背景を十全に分っていてなされた、ある種の挑発的な意見であったかと思う。
この質問に私は次のように応えた。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください