誰でも「保守主義者」と称する「インフレーション」の時代に
2018年01月31日
西部邁が逝去した。西部の逝去を伝える訃報記事は軒並み、彼を「保守論壇の重鎮」といった言葉で紹介している。筆者もまた、以前は保守論壇の先々を担うものだと思われていた。世に出る前の「若き緑の日々」に西部の言説から受けた影響は、確かに大きい。本稿では、筆者の精神史における西部との関わりに触れながら、保守言説の今後を展望することにしよう。
西部という知識人を語る上で欠かせないのは、彼の処女論集『大衆への反逆』である。『大衆への反逆』が刊行された数年後、一九八〇年代半ばの頃、当時二十歳を過ぎたばかりで、大学浪人生活二年目を過ごしていた筆者は、この書を熱心に読んでいた。筆者は、地方の当時の「意識高い系」高校生であった頃には、雑誌『世界』を熱心に読んでいたけれども、『世界』を舞台に展開された戦後「進歩主義」論調には終ぞ染まらなかった。高校時代以降、世の風圧の厳しさに直面し続けた筆者にとっては、高坂正堯や永井陽之助が披露したように、「力の現実」を正面から説く言説にこそ、惹かれるものが感じられた。普段、触れる論調の主軸が雑誌『世界』から雑誌『中央公論』に移っていく。西部の議論は、そうした流れの中で当時の筆者の視界に入ってきたのである。
その頃、『保守反動思想家に学ぶ本――柳田国男から山崎正和まで 別冊宝島 47』という書も出版された。この書には、現在では驚くべきことに、山崎正和までもが「保守反動思想家」の一として数えられていた。戦後「進歩主義」論調が想定する言論の規格に合わないものは、「保守反動」として位置付けられる。それが往時の「空気」であったわけである。
「知識人の思考を理解するためには、その知識人が依拠しているものに触れることだ」という習いでいえば、そうした習いを先ず実践しようとしたのが、前に触れた永井陽之助や高坂正堯と並んで西部の思考であった。
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