沖縄の苦難の歴史をわが身に置き換えて真摯に学べば本土との溝を埋める第一歩になる
2018年02月12日
全国や米国の注目を集めた名護市長選挙は、辺野古移設反対の現市長を破って自公推薦の新人、渡具知候補が勝利を収め、安倍首相が「本当に勝って良かった」と手放しで喜んだ。だが、決して名護市民は辺野古移設を容認したわけではない。今回の名護市長選から感じたのは、辺野古移設問題をこれまで長い間、抱え続けてきた名護市民の疲れと諦め、そして国策の重圧だった。
最大の争点はもちろん、普天間飛行場の名護市辺野古移設をめぐる賛否だった。この争点をめぐって、1998年以来、今回の選挙に至るまで、実に20年間にわたり賛成派と反対派に二分されて名護市の市長選は戦われ続けてきた。
淵源(えんげん)をたどれば、1995年の3人の米兵による少女暴行事件をきっかけに沖縄県民の怒りが爆発して、当時の大田知事を先頭に日本政府と激しく対立し、その結果、1996年4月、日米両首脳間で沖縄が最も望んでいた普天間飛行場の返還が決まった。
沖縄県民の喜びもつかの間、県内移設条件付きが判明すると、県民は「やっぱりねえ」と失望を隠さなかった。県内移設の困難さをわかっていたからだろう。曲折の末、移設先が名護市辺野古に決まった。名護市は大騒ぎになった。1997年に辺野古移設をめぐって市民投票が行われ、結果は反対が賛成を上回り、決着がつくかにみえたが、当時の比嘉市長は投票結果に反し、辺野古移設を受け入れて辞職した。そして翌年から今回まで6度にも及んで、辺野古移設を最大の争点として市長選が戦われてきたのだった。
今回の市長選でも直前の名護市の合同世論調査によれば、最も関心のある争点は圧倒的に辺野古移設(53.2%)だった。ところが現職の稲嶺市長が明確に「辺野古移設反対」を主張し続けたのに対し、渡具知候補は辺野古移設を争点から外して言及せず、市政刷新と経済振興を前面に出して選挙戦を戦った。
つまり渡具知候補は選挙運動期間中に、「辺野古移設を受け入れます」とはひとことも言っていないのである。政府与党から全面的な支援を受けながら、渡具知候補が「辺野古移設容認」を封印したのは、公明の推薦を獲得するためでもあったが、「反対しても政府が進める移設工事は止められない」という諦めムードが漂う中で、長年の選挙スローガンである辺野古を外し、経済振興策や市の活性化策を訴える方が新鮮に響き、とくに若い有権者たちを引きつけるという選挙作戦からだった。
稲嶺市長も「辺野古移設問題がはぐらかされてしまったことが今回の結果となった」と語っている。前述の名護市の合同世論調査でも、普天間の辺野古移設について「反対」が66%と大多数で、「賛成」は28%にすぎなかった。この辺野古反対の民意をかわすことこそ、渡具知候補が辺野古移設容認を封印した真意であろう。現に当選した翌日、彼は「辺野古容認ではない」と明言している。
日米安保の要となる重い負担を押し付けられて、市を二分する熾烈(しれつ)な戦いが長い間、続いたので、地域社会の人間関係に大きな亀裂を生じている。こうした精神的なストレスは名護市民の疲労感を募らせる。日米両政府が名護市民に強いている重圧と犠牲はこの上なく大きい。
とくに今回の市長選で、安倍政権は「辺野古移設が唯一の解決策である」と繰り返し強調し、菅官房長官や二階幹事長、岸田政調会長、原田創価学会会長も現地入りして市内の企業や団体の票固めをした。人気の高い小泉信次郎議員は2度も現地入りして無党派票を取り込み、ヒト・モノ・カネを総動員した選挙戦を展開した。自公政権の総力を挙げた支援がなければ、無名に近かった渡具知候補が3期目を目指す現市長を破ることはあり得なかっただろう。安倍政権が辺野古移設反対の稲嶺市長を力でねじ伏せたのが今回の選挙だった。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください