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私が見た政治家・野中広務の神髄

孤高のケンカ師政治家が弱者救済、平和追求、差別解消の政治を求めるようになったわけ

御厨貴 東京大学名誉教授

「巨星落つ」の感慨

インタビューに答える野中広務氏=2014年5月21日、京都市南区拡大インタビューに答える野中広務氏=2014年5月21日、京都市南区

 1月26日、野中広務さんが亡くなった。享年92歳。大往生といっていい。

 最後に会ったのは一昨年の12月。私が司会者をつとめるTBSの「時事放談」に古賀誠(自民党元衆院議員)さんと一緒に出てもらった時だ。

 当時、私は「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の座長代理を仰せつかり、会議の仕切りやメディア対応でそれなりに苦労をしていた。それを知ってか知らずか、野中さんは番組の最後で、大事なお働きをしていただいてありがとうございました、と言った。その声音が今もありありと耳底に残る。

 訃報(ふほう)を耳にした時に感じたのは、「巨星墜つ」という思いだった。そんな感慨を抱く政治家はもう最後かもしれない。

 首相をつとめたわけではない。中央政界で活躍した期間も実はそれほど長くはない。にもかかわらず、かくも確固たる存在感を持つ不思議さ。野中という政治家はいったい何者だったのか。

遅咲きの国会議員、90年代に活躍

 国会議員としては遅咲きだ。半世紀にわたる政治家歴のうち半分以上を地方政治家として過ごした後、国政に転身したのは1983年。すでに57歳。二世三世の若い議員が増えつつあった政界にあって異色である。

 だが、野中はそれから権力の階段を急ぎ足で駆け上がる。55年体制が幕を下ろし、政治改革の嵐が吹き荒れる激動の90年代、ある時は連立政権を仕掛け、またある時は舌鋒(ぜっぽう)鋭く相手をやり込め、実力者の一角を占める。村山富市、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗の4政権を支え、官房長官や自民党幹事長などの要職も歴任した。

 引き際も潔かった。世紀をまたいだ2003年、小泉純一郎首相の絶頂期に突然の引退。その後は「言論元老」として、メディアを通じて政治に厳しく注文をつけ続けた。

初対面で感じたすさまじい「風圧」

 そんな野中は、90年代以降、小沢一郎と付き合うことが多かった私には縁遠い政治家だった。「反小沢」であることはわかるが、ではいかなる政治家なのか、見定められなかったからだ。

 野中と初めて会ったのは、政界引退から2年がたった2005年秋。郵政選挙の後、「時事放談」のコメンテーターに私が呼ばれた時であった。急逝した後藤田正晴・元副総理の生前の思い出を、野中と、後藤田のオーラルヒストリーを手がけた私とで語り合うという内容だった。

 会った瞬間に感じたのは、野中が発するすさまじいばかりの「風圧」だ。小沢も人を威圧するタイプではあったが、それとは比べものにならない、尋常ならざる風圧。背後に何ものかがひそんでいるかのような強烈な印象を受けた。

 ただ、その後、「時事放談」のコメンテーターとしてしばしば同席するようになると、そうした風圧は影を潜めた。こちらが話しやすいようにという配慮か、政治家にありがちな「一発かまして従わせる」という風もなく、私の意見にも耳を傾け、納得できると賛意も示す。そんなきめの細かさがみえた。

 それと同時に感じたのは、「土の香り」だった。京都の北の地方の生まれという出自、地方政治家出身という経歴のゆえだったかもしれないが、中央よりも地方、強者よりも弱者という野中の政治姿勢と響き合う気がした。

民主党政権に抱いた葛藤

 前任者から「時事放談」の司会役を引き継いだ2007年4月以降、数カ月に1度の頻度でコメンテーターをお願いした野中との付き合いは深まっていった。足かけ10年近くになる司会者とコメンテーターとの関係のなかで、わけても興味深かったのは、小泉政権以後の自民党政権に対する冷ややかさと、民主党政権についての葛藤、苦悩であった。

 小泉政権以降の自民党、小泉的なるものが支配する自民党に対し、野中は明らかに異なる気分を抱き続けた。

 小泉政治は、野中からすると、世論受けを狙ったポピュリズムであり、改革の方向も弱者切り捨て以外のなにものでもない。野中にはとうてい許されない政治であった。小泉の後、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎と1年ごとに交代を繰り返した政権に対しても、基本的に冷めた目線であり続けた。

 それゆえ、自民党から政権を奪取した民主党政権には、自民党ではなし得ないことをしてもらいたいという期待を、野中はひそかに持っていたように見える。自民党の野中にすれば、政権自体は否定、運営も稚拙だと難詰したのは当然だが、それでも民主党が打ち出した、国民との関係を仕切り直す発想それ自体は、今の自民党にはないが、本来留意すべき事柄と考えていたフシがある。

自民党を丸ごと受け入れない

 換言すれば、自民党そのものを、野中は決して丸ごと受け入れてはいない。日本の政治がよって立つ唯一の基盤政党であるのは確かだが、それにしてはあまりにも目線は上向きで、国民に対して「非情」であり過ぎると感じていた。それが野中の自民党観であった。

 だからこそ、自民党が従来やってきたことを繰り返すだけでは足りず、それ以外にも広く目を向けなければならないという思いが野中にはあった。では、それは具体的には何だったのか。

 風圧のある政治家・野中は、権勢の政治家でもある。権力を握ると、それを存分に行使した。ただ、ウラ工作には無類にたけていたが、真正面から勝負にいどむ姿も多かった。それは彼の政治の目的が「権力を握ること」そのものにあったからではないからだ。権力を握った時に「何を」するかが大事なのだ。野中にとっての「何を」は、弱者の救済であり、差別の解消であり、平和の追求であった。自民党に求めたのも、それであった。

弱者救済の信条を再認識

関係閣僚会議に出席した村山富市首相(左)、野中広務国家公安委員長=1994年11月29日拡大関係閣僚会議に出席した村山富市首相(左)、野中広務国家公安委員長=1994年11月29日

 こうした政治信条はおそらく自らのルーツに根差すものではあったが、政治家としてそれをあらためて強く認識したのは、細川護熙、羽田孜両政権のもとで野党時代を体験した自民党が、社会党、新党さきがけと組んで政権復帰を果たした、自社さ連立の村山富市政権での経験からではないか。 ・・・ログインして読む
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筆者

御厨貴

御厨貴(みくりや・たかし) 東京大学名誉教授

1951年生まれ。東京大学法学部卒。東京都立大学教授、ハーバード大学客員研究員、東京大学先端科学技術研究センター教授、放送大学教授などを歴任。専門は政治学、日本政治史。『オーラル・ヒストリー』(中公新書)、『権力の館を歩く』(ちくま文庫)、『政治へのまなざし』(千倉書房)、『政治の眼力』(文春新書)、『政党政治はなぜ自滅したのか?』(文春文庫)など、著書多数。