「平成」の終わりは時代の区切りになるのか。終わらない「戦後」との関係は?
2018年03月09日
「平成」の終わりまで間もなく1年。来年4月末の天皇退位に向け、いよいよ「カウントダウン」のムードが高まってきた。
カウントダウン自体、明治以降の日本にとっては初体験である。なぜなら、明治への改元以降、改元とはすなわち、「天皇陛下の崩御」と同義であったからだ。たとえ余命宣告がなされたとしても、個人の死去へのカウントダウンは倫理的にあり得ないし、しかもその個人がほかならぬ天皇となれば、「不敬」としてタブーになるほかない。それゆえ、改元へのカウントダウンは、これまでありえなかった。
本稿では、近代では初めてとなる、このカウントダウンの意味について論じてみたい。ただ、漠然と論じても、焦点を結ばないものになってしまうおそれがある。そこで、(1)「平成」の終わり(2)「戦後」の続き――という二つの視点を据え、素描を試みることとした。
読者だけではなく、筆者もまた、この平成カウントダウンをリアルタイムで考察する当事者である。当事者としてカウントダウンを考える際のメルクマールになり、また出発点となるポイントを、上記の二つに沿って浮き彫りにしてみたい。
慶応から明治への改元と同時に、ひとりの天皇陛下の在位期間中の元号をひとつに限定する「一世一元」が定められた。くわえて天皇が終身在位となったため、代替わりと改元が「天皇陛下の崩御」と同じタイミングになった。
元号は、西暦645年の「大化」以来、平成まで247個に及ぶ。その間、さまざまな理由で改元が行われてきた。代替わりや「天皇陛下の崩御」を伴わない改元も少なくない。
ただ、よほどの歴史好きでない限り、個々の改元についての知識など持たないのがふつうだ。「平成」を生きる日本人にとって、改元にまつわる強いイメージとして残っているのは、「昭和」末期の情景であろう。
平成28年8月8日に公表され、今回の代替わりの契機となった「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」では、そのときの様子が次のように語られている。
「天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。」
振り返れば、昭和63年の秋以降、「自粛ムード」と呼ばれる世相が、昭和天皇の体調悪化とともに急速に強まり、国中に広がった。その記憶は、今の40代、あるいは50代以上の世代にとって、くっきりと脳裏に焼き付いているに違いない。まさしく、国民の暮らしに様々な影響が及んだのである。
当時8歳だった筆者ですら、その一端を覚えている。9月19日に昭和天皇が大量吐血して以来、「天皇陛下重体」の報道が続くなか、10月7日にプロ野球・中日ドラゴンズがリーグ優勝したにもかかわらず、選手やファンが何とも奥歯にものが挟まったような喜び方をしている光景を、不思議に思った記憶がある。
一方、「昭和」はまさに激動の時代だったから、その幕引きにあたり、大掛かりな回顧と懐古に向かうのは当然だった。戦争にむかってひた走った戦前。開戦と破滅、敗戦と占領を経て、戦後復興や高度成長、オイルショックにバブル経済を経験した戦後。いくつもの分岐点、トピックスがあった。そのそれぞれに、社会の、そして個人の膨大な思い出があり、いくらことばを費やしても語りたりないほどだった。
そもそも、「昭和」を体現する天皇その人が多面的であった。戦前は大日本帝国の君主。戦後は日本国の象徴として、在位期間中に二つの顔を生きた。天皇個人の生前をしのぶだけでも、膨大なことばが必要になる。
戦争に対する昭和天皇の関わり方をめぐる議論は、いまも絶えない。一方で、戦後の平和と安定を象徴する姿もまた、人々の記憶に色濃く焼き付いている。生物学者としての表情、天皇ファミリーのおじいさまとしての顔……。多面的な顔を持つ個人を思い出し、追悼することばが、国の内外から寄せられたのである。
だから、「平成」への改元で自粛の軛(くびき)から解き放たれるや、世の中は「昭和」にむけて押し寄せた、おびただしいことばの波にのまれていった。「平成」という真新しい元号がひらく新しい時代への期待も確かにあった。だが、それよりも「昭和」への郷愁のほうが、はるかに上回っていた。
では、今回の「平成」からの改元はどうであろうか。まずは、どのような特徴があるかから考えたい。
第一の特徴は、約200年ぶりの「生前退位」、つまり「譲位」や「退位」に基づく点である。
明治以降の改元をみると、いずれも天皇が体調を崩され、徐々に崩御への「空気」がつくられ、改元に至っている。これに対して、今回は、まず天皇陛下による「おことば」があり、政府・国会における議論がおこなわれ、特例法に根拠づけられるかたちで改元へと進む。カウントダウンの地ならしと手続きが、「遵法的」な手続きによって、粛々と進められているのである。
そして、そうした形式的な特徴と連動して、改元の内実に関する第二の特徴もまた見えてくる。端的に言えば、それは中途半端さだ。
何よりも、来年、すなわち平成31年4月30日に「平成」が終わるという、その日付が中途半端である。
終わりの日付としては、「平成30年12月31日」が最もシンプルだろう。正月の行事で忙しいとすれば、せめて年度末の平成31年3月31日であれば、一定の区切り感はある。
ところが、実際にはそのどちらでもなく、俗にゴールデンウィークと呼ばれる大型連休の最中に、天皇の代替わりと改元がおこなわれる。しかも、この改元の日付をめぐって、首相官邸と宮内庁のあいだで綱引きやさや当てがあったとも報じられている。改元が、政府内部の権力争いや、メンツにまつわる具になったわけだ。
なにも天皇陛下の「おことば」を絶対的なものとして崇(あが)め奉りたいわけではない。ただ、時代を「区切る」とされる改元の日付にしては、歴史観のない中途半端さが拭えないのである。
このように、中途半端な改元の日付にもかかわらず、新聞社を中心に「平成」の歴史を振り返る試みが昨年から続いている。
朝日新聞であれば、「平成とは」であり、毎日新聞は「1億人の平成史」である。カウントダウンとともに、メディアは陸続と「平成」を顧み始めている。
こうした試みを無意味だとか、空振りだとか、難癖をつけたいわけではない。そうではなく、「平成」をめぐる回顧が積み重なれば積み重なるほど、内実のなさが際立つ可能性を指摘したいのだ。
「平成」という元号が「昭和」のようには時代認識の枠組みとして機能するのかしないのか。そうした議論をすることなく、ただただ「平成」を振り返ろうとすればするほど、かえって、その実体のなさが浮き彫りになるのではないか。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください