「やらない理由」を探すのではなく、「正義を実現しよう」という機運をよみがえらせた
2018年03月16日
不正義を目の当たりにしたときに人がとる態度は様々だ。その際どうすべきかを身をもって教えてくれたのが、ヒップホップミュージシャンのECDだった。そんな彼の背中を思い出しながら東京に雪が降った2月のはじめ、ECDの通夜に参列した。
1990年代から日本のストリート・ミュージックを牽引(けんいん)してきたECDは、90年代の心象風景をとらえた曲のひとつである『ECDのロンリーガール feat. K–DUB SHINE』(1997年)などで、抑圧されている側が自ら立ち上がることを歌ってきた。
それから20年後の昨年末にリリースされた加藤ミリヤ『新約ディアロンリーガール feat.ECD』でも、彼は転向することなく人びとに立ちあがれと訴えかけていた。
そういうメッセージを発信し続けていたECDは反戦運動や反原発運動、反差別運動でもつねに先頭にいた。2001年のアメリカ同時多発テロ後の世界での報復戦争に反対した2003年のイラク反戦デモ、2011年の東日本大震災に伴う福島第一原発事故以後の原発反対デモ、新大久保をはじめとする路上で率先してシットイン、ダイインを実践したのもECDだ。
当時まだデモになじみのなかった若者たちやカウンターに参加していた人びとは、彼の大きな背中に幾度となく勇気づけられたのだった。ECDは反差別運動のみならず2015年安保、特定秘密保護法反対抗議、最賃引き上げ運動などの重要な局面でまさに路上の直接民主主義としてのデモを「リ・デザイン」してきたのだった。
いまでは当たり前となっている「言うこと聞かせる番だ、オレたちが!」「貧しいやつは手上げろ!」といった、運動を象徴するコールをいくつも生み出したのはECDだ。そのなかに「キレイゴトに力を!今こそ!」というコールがあった。
新自由主義的なガヴァナンスのモードが世界中を席巻していた2000年代までは、「キレイゴト」なんて言っても無駄だという諦めに似た空気感が支配していた。この空気感を吹っ飛ばすこのコールは、人びとの心に響いたのだった。
もちろん、不正義を致し方ないものとして目をつぶる空気感は、いまだに若干の人びとの内心に誤った形での「現実主義」として巣くっている。だが、なぜこれが誤っているかといえば、それは現実主義ではなく、たんなる現状肯定主義に他ならないからである。
不正義に対して挑むのは正直しんどいし、何よりもいくばくかの勇気がいる。挑みかかる相手が政治・社会構造そのものである場合にはなおさらだ。声を上げただけで嫌がらせを受けることもある。近年の政府による朝日新聞バッシングなどをみて、人びとは身にしみていることだろう。
だから人びとは平和主義や人権の尊重、差別の全廃を「キレイゴト」として小馬鹿にする冷笑や傍観、「中立性」をにじませた逆張りの態度に、偽りのもっともらしさを提供してくれる「やらない理由」を探すことに躍起になる。
「やらない理由」のひとつを提供し続けてきた正義論のひとつはいうまでもなく政治哲学者ジョン・ロールズのリベラリズムであろう。
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