背後に政治・行政改革で変質した政官関係。「弱すぎる官僚」は国民にとってプラスか
2018年03月27日
組織的な再就職あっせん、いわゆる「天下り」の問題から始まり、加計学園の獣医学部認可にからんで前川喜平・前文部科学次官が安倍晋三政権に反旗を翻した文部科学省。「忖度(そんたく)」から安倍政権に追随して行政を歪(ゆが)めたかに見える佐川宣寿・前国税庁長官と財務省。
昨年から今年にかけて永田町・霞が関を揺るがせた、政治と官僚を巡るふたつの事例をあらためてみると、共通するふたつの問題点が浮かび上がってくる。
第一に、政官のパワーバランスが圧倒的に「政優位」になっていることだ。かつてのように官僚が政治家を振り付ける「官僚主導」の面影はどこにもない。
たとえば文科省の天下り問題では、事件発覚後、時間をおかずに前川事務次官(当時)が辞任した。小泉純一郎政権の頃、厚生労働省の元事務次官が雇用・能力開発機構の理事長を続投することに関し、首相自らがこれにストップをかけたことを参議院の決算委員会で明らかにした後、各省庁事務次官会議で「天下り制限」に対する批判が噴出し、大塚義治・厚生労働事務次官(当時)が「次官であるがゆえに制約を受けるのは論理的ではない」と強い調子で非難した(『選択』2004年4月号)のとは、あまりに対照的である。
天下りの是非については議論があるだろう。とはいえ、官僚トップの事務次官でさえここまで軽く扱われるとなると、官僚のモチベーションは保てるのだろうか。官僚は普段から政治家と接触する。その都度に屈辱感しか抱けないのであれば、誰が官僚を目指すというのだろか。
第二に、政策の執行過程で政治が介入した場合、官僚が抗しきれなくなっていることである。政治が政策の方向性を示すのではなく、執行過程を歪めている。典型的に悪い政治主導である。
政治主導、官邸主導を実現し、官僚主導体制や官僚内閣制を打破するというのが、衆議院への小選挙区制度の導入から内閣人事局の創設に至る、1990年代以降、20年以上にわたる政治・行財政改革の眼目だった。だが今、政治主導が正しく機能しているのかどうか、ふたつの事例を見ていると、疑問を禁じ得ない。他方、弱体化した官僚をこのまま放置しておくのが国益に資するのか、議論する必要もあるようにも思う。
本稿では、政治と官僚の関係の変転。なぜ、そうなったのか。「弱すぎる官僚」は国民にとってプラスなのか。あるべき政治と官僚との関係は。そのためにどうすればいいのかなどについて、2回にわけて考えてみたい。
まず、現在のような強い官邸主導体制ができた経緯について、簡単に説明しておこう。
冷戦が終わってからほどなくしてバブル経済が崩壊、日本は長期不況に陥る。これこそが1990年代から2000年代初めにかけて進められた行財政改革の発端である。
当時、日本では政策目標がはっきりしたキャッチアップ型の経済成長が終わり、これからは自らが主体的に国の行く末を考えて、ドラスティックに方向を転換していくべきだと言われた。そのためには各省割拠主義を特徴とする官僚主導を打破すべきだと強調され、ときに“癒着”とさえ言われてきた与党の政治家と官僚の密接な関係も、敵対的なものへと変化していった。
その過程で起きた、政治家がテレビで官僚を批判したり、マスコミが官民の労働条件の違いを取り上げて官僚を非難したりする「官僚バッシング」が、いかに激しいものだったかについては、拙著『公務員バッシングの研究』(明石書店)を参照していだければと思う。冷戦の終結とともに55年体制も終わって政治が混乱、長引く不況もあって閉塞(へいそく)感が社会を覆うなか、エリート然とした官僚が国民の不満のはけ口になった面もあったのだろう。
こうしたなか、行財政改革を通じ、あるいは官僚バッシングを契機に、様々な改革が進められた。たとえば中央省庁の再編、特殊法人の改革、国家公務員の再就職規制などであるが、それも2014年の内閣人事局の発足で一区切りがついたかたちである。
政治主導体制はなぜ、求められたのか。あらためて言えば、1990年代以降、国内の改革が常に大きな課題となるなかで、国内の資源配分を思い切って変える構造改革のために、強力な権力が必要とされたからに他ならない。
バブルがはじけて成長が鈍化する一方、少子高齢化が進展し社会保障費が増加する状況下、伸び悩む財源をどう配分するのか、日本経済を成長軌道に戻すには何をすればいいのか、議論と試行錯誤が繰り返される過程で、政治のあり方もまた、大いに議論された。
そこで浮上したのは、ふたつの議論であった。ひとつは、政策の方向性は官僚ではなく政治が決めるべきだということ。もうひとつは、そうした政策の方向性について、選挙の際に政党が予算の裏付けや政策の実現時期などをしるした公約=マニフェストを提示し、有権者に明示するべきだという議論である。
ここで忘れていけないのは、この種の議論が盛んに行われた大前提は、「政権交代」があるということだった。小選挙区を主体とする衆院選を、二大政党がそれぞれマニフェストを掲げて戦い、どちらが望ましいかを国民に選んでもらう。政権交代によって、たとえ政策の基本的な方向が変わっても、行政運営が不安定化しないように、官僚はプロフェッショナルとして公正中立に政権を支える。
これこそが、改革が想定した政治の姿であり、政官の役割分担の理想だった。
そこで求められた官僚や中央官庁の公正中立とはどういうものか。少なくとも四点を指摘できる。
ひとつは、政権が交代すれば、政権政党の意向に沿った行政を行うことである。政党が公約(最近はマニフェストという言葉はあまり使われなくなった)で示した政策に異を唱えるべきではない。投票率がどうあれ、その政策を掲げた政党を選んだ国民の「意思」があるからだ。
ふたつ目は、政策目標を実現するための手段について選択肢を示すことである。政治家に特定の政策を押しつけたり、売り込んだりするのではなく、客観的なデータを付加した複数の政策案を提示するべきだ。そのなかから何を選ぶのかは、政治家の領域である。
三つ目は、政策を効率的に執行することだ。日本の官僚機構は企画立案(特に法律案の策定)や政策案が固まるまでの政策形成過程に多大な労力を割く傾向があるが、行政の元来の役割は政策の執行である。最小のコストで最大の成果を得られるよう、政策執行にもっとエネルギーを割かねばならない。
四つ目は、特定の政党・政治家に有利になるようなことは行わないことである。政権に関わる政党や政治家に対しても、忖度なるものは存在してはならず、たとえ圧力をかけられたとしても、断固拒否するか、諫(いさ)めることが求められる。族議員とつるんだかつての行政からは決別しないといけない。
この四つは互いに矛盾するものではない。たとえば、公共事業を削減する方針の政党から公共事業を積極的に行う政党に政権交代した場合、官僚は公共事業を進めるため、適切な政策を用意し、積極的に執行するが、仮に政党や政治家が特定の公共事業などに介入しようとすれば、これを拒否するのが、官僚・中央官庁の公正中立なのである。
バブル経済が崩壊し、二大政党制を志向する選挙制度が導入され、政権交代への流れが現実化するにつれ、日本の官僚はこうした方向に意識を変えようと努力した。実際、民主党政権が誕生した時には、一時的だが、官僚像も大きく変化した印象だった。
ところが、民主党政権の挫折と自民党の政権復帰で流れが変わった。「安倍一強」「自民党一強」が定着し、政権交代が定期的に起こるという大前提が崩れた結果、それに付随していた政官の役割分担や官僚や行政の公正中立性にも大きな変化が及ぶことが避けられなくなった。
そのひとつが、後で詳しく述べる内閣人事局のあり方である。内閣人事局もまた、政権交代が定期的にあるという大前提のうえでこそ、意味のある組織だからである。
そもそも首相を中心とした政治家がなぜ人事権を握る必要があるのか? それは首相が示す政策の方向性に異を唱える官僚、省益にこだわる官僚がいると、国の方向性を思い切って変えることができないからだ。だが、その大前提は政権交代があること、そして政治が目指すべき方向性がはっきりしていることだった。
もちろん、それ以外にも想定されていた幾つかの前提がある。なにより肝要なのは、政治家が適切な人事を行うことができるか、である。能力本位、政策本位で官僚を選べる眼力があるか、好き嫌いで人事を行わない自制心があるか、が問われる。第2次以降の安倍政権のもとで、これらの前提ははたして満たされているだろうか。
アメリカのトランプ政権のように「辞任ドミノ」を引き起こすような人事が行われていない点からすれば、合格点かもしれない。とはいえ、国を揺るがすような過剰な忖度が生じている現状をみえると、政治が適切に人事権を行使しているとは言い難い。
そこで、ここからは内閣人事局に焦点をあて、官僚と人事について話を進めていく。
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