政治・行政改革で変質した政官関係。「弱すぎる官僚」は国民にとってプラスなのか
2018年03月28日
「財務官僚はなぜ、文書を改ざんしたのか?(上)」では、1990年代以降の政官関係の変化、内閣人事局のもとで官僚の人事が適切に行われているとは言い難いこと、その結果、官僚組織に病理的な現象が見られるようになっていることについて述べた。
こうした状況を招いたあしき政治主導を正し、官僚の士気を高めるためにどうするのがいいのか。内閣人事局は廃止するべきなのか。今回はそこから考えていきたい。
いくら第2次安倍内閣に批判的であっても、内閣人事局を即刻、廃止し、官僚に対する人事権を政治家から取り上げて、強い官僚を復活させるべきだと考えている人がどれほどいるだろうか? 昨今、強すぎる安倍内閣の牽制(けんせい)する勢力として、官僚や元官僚、あるいは司法を持ち上げる傾向がみられるが、はたして世論もそう期待しているのだろうか?
世論が望んでいるのは、政治と官僚の適切な役割分担ではないかと筆者は思う。かつてのような官僚主導は望む人は、ほとんどいないはずだ。
確かに、以前のような官僚バッシングは今は見られない。しかし、それは官僚に対する信頼感が復活したからではない。私見では、①旧民主党がもたらした政治主導の幻滅②景気が緩やかに回復していること③外交に関心が向かっていること④一部に見られる国家主義や右傾化の動き――の四つが、官僚に対する風当たりを緩めているに過ぎない。
第2次安倍内閣の面々の傲慢(ごうまん)な態度をみて、世論が政治への権力集中に疑問を持ち始めているのは明らかであろう。とはいえ、社会には依然、反エリートのポピュリズムが根強く存在する。官僚への権力集中が行き過ぎると、再び頭をもたげてくるに違いない。
繰り返しになるが、長年にわたる政治・行政改革の結果として、国民が今、得つつある結論は、政官の適切な役割分担に他ならないのである。
マスメディアではこのところ、内閣人事局へのネガティブな評価が目立つが、こうした流れのなかで、これまで内閣人事局が一定の支持を集めてきた(一部には熱狂的な支持もあった)のは間違いないだろう。
そもそも、内閣人事局の人事システムのあり方について、どれほどの議論があっただろうか。確かに内閣人事局長を政治家にするか、官僚にするかという議論はあった。内閣人事局が発足する前にその議論をした覚えはある。筆者は福田康夫内閣(2007~08年)において、国家公務員制度改革推進本部顧問会議ワーキンググループ委員だったが、この種の議論を活発に行ったものだ。
ただ、そのとき、官僚の具体的な任命方法に関して議論はしたものの、最終的には曖昧(あいまい)なままで終わった記憶がある。また、制度が発足した後も、議論が百出したということはないはずだ。
とすれば、内閣人事局を全面的にやめてしまうのが有効な政策だとは到底、思えない。むしろ、これをいかしつつ、よりよい機関にする努力が必要ではないか。
本稿では、そのために短期的にできて即効性のあることと、中長期的に検討すべきことの二つに分けて、内閣人事局の改善案を提案してみたい。
まずは、内閣人事局制度を、より透明度が高く中立的なものに変えることである。
これについてはイギリスの事例が参考になるだろう。イギリスは日本が政治主導の体制をつくる際、モデルにしたと言われるが、幹部官僚の任命については、中立の機関が候補者を選定するなどの措置がとられている。
日本でもこれにならい、政治家が最終的な人事権を握るという基本は維持しつつ、中立性を担保するなんらかの方法を考えるべきだろう。
具体的には、①有識者などでつくる第三者組織が関与する②前任者が後継候補者の指名に参考意見を述べられるようにする③数人の候補者名簿の中から政治家が任命する「ショートリスト方式」を採用する――などが考えられよう。
次に、中長期的な課題としては、日本の「行政文化」を考慮した新たな政官関係を模索する必要がある。
政治が優位に立つ状況で内閣人事局にいくら改良を加えたとしても、従来型の行政文化のもとでは、前川氏や佐川氏のように追い込まれる官僚はこれからも出てくる。極論を言えば、日々、量産されるといっても過言ではない。
日本の政官関係は基本的に「融合モデル」である。政治との関係をいかにうまくつくるかが官僚には求められてきたし、今後もそれが変わるとは想定しにくい。イギリスをモデルにした改革を行っても、日本の行政文化がそう簡単に変わるとは期待できない。
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