政府方針には、議論の成熟度も、出し方も、中身自体も、失格の烙印を押したい
2018年04月27日
3月中旬に、突然、政治課題の1つに浮上し、そして1ヶ月後には潮が引くように、表面上は何事もなかったかのごとく何処かに行ってしまった放送制度改革。いわばアベノミクスの何本目かの「矢」になり損ねたということになろうが、その議論の過程で放送の根幹を揺るがせかねない重大な問題提起がなされていた。
その1つが、放送はNHKだけあれば十分だという、民放不要論である。これまで日本の放送制度は一貫して、NHKと民放の二元体制を前提に考えられてきたし、双方を合わせて多様で地域性が豊かな放送が維持されるとしてきた。こうした、いわば放送の公共性を壊すことに繋がりかねない制度変更をどうするかという問題である。
そしてもう1つが、政治的公平さを定めた放送法4条をはじめとする、放送にかかる規律を撤廃することの是非である。この規制撤廃論は、まさに放送法そのものを事実上廃止することを意味しているとも言え、当然、現在の放送のあり方、放送の自由の保障にも決定的な影響を与える可能性がある。
もしかしたら、一部で流布されているように、安倍首相がAbemaTVに出演し、長時間にわたって自説を心置きなく話せたことに気を良くした結果なのかもしれない。いまのテレビもすべてこうして自由に自分の意見を存分に流してもらいたいという欲望から、その妨げになっている放送法の規定である「政治的公平」という縛りをはずしたいと思ったのではないかという推測である。
こうした推理を否定するだけの材料は持ち合わせないが、もしそうだとしても、問題なのは思う存分話したいと考え、その阻害要因である法規定をなくそうとしたことそのものではなく、なくすことがどういう意味を持つかについて、思いが至らない官邸および議論の主体である内閣府のもとでの規制改革推進会議ということであろう。
このように、出されてきた提案に、情報コントロール色が強い現政権のキャラクターがどこまで反映しているのかを考えざるを得ないところが、この問題を字句通りには理解しづらい要因であるが、さらに話をややこしくしているのが、巷の受け止めである。それは、現政権のメディア対応に否定的な人も含め、規制撤廃自体はいいのではないかとの意見が数多く見られたからだ。
表現の自由を考えると、何も規制がないのが一番であって、それからすると政府提案は渡りに船であって、喜ばしいことではないか、との意見は一見道理が通る。あるいは、これまで放送界も、放送法の条文を規制根拠として、度々行政指導という名のもとで政府から圧力があったり、様々な嫌がらせを政府・政権党から受けてきたことから、放送法を腫物に触るように扱ってきた歴史を考えると、なくなった方がよいではないかという考えが成り立つ。
むしろここにきて突然、各民放局の社長が手のひらを返したように記者会見で撤廃に強く反対する姿勢は理解に苦しむ、という声すら聞く。あるいは、読売新聞が強い口調で、首相の思い上がりではないかという趣旨の記事を突然載せたことに、逆に違和感を持ち、放送法を維持することでメディアにはよほどおいしい「蜜」があるのではないか、との推測を呼んでしまってもいた。
そこでここでは、この撤廃の意味について整理し、その是非について考えていきたい。そのためにはまず、放送法の性格と仕組みを確認する必要がある。
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