タックル問題への日大側の対応と森友・加計問題への政府の対応に通底する日本の闇
2018年05月30日
日本大学アメリカンフットボール部の前監督、前コーチ、学長の会見を聞いた。守勢に立たされた側の、苦しい弁明の言葉が相次いだ。ふと既視感を覚えた。そう、いまの政治の世界とそっくり同じではないか。
日大アメフト部の悪質タックル問題はなぜ、かくも世間を騒がせるのか。その元凶を考えていくと、日本という国全体に通底する病理が見えてくる。
「指示はなかった」、「権限がない」、「問題の全容は把握していない」、「よく分からない」、「答えられない」、「誤った情報を与えた」、「部下が勝手にやったこと」、「わたしが申し上げたわけではない」。
これらは、今回の日大アメフト部の問題だけではなく、昨年から続く森友学園問題、加計学園問題をめぐり、幾度も聞かされた弁明の言葉の一部である。安倍晋三首相、首相周辺の官僚たち、加計学園側、日大側といった守勢に立たされた側は、幾度もこうした発言を繰り返した。
これら弁明の効果はといえば、それは責任逃れの一点に尽きるだろう。人の上に立つ者たちが、みな自身らの保身のためになりふり構わずやっており、見苦しいことこのうえない。他方で責任を押し付けられ詰め腹を切らされるのは、この社会では決まってその組織内で弱い立場にある者たちだ。
森友学園を巡る財務省の決裁文書の改ざん問題では、近畿財務局の男性職員が自殺を余儀なくされ、多くの官僚たちが進退を迫られた。
加計学園問題では、愛媛県が21日参院に提出した関連文書に安倍首相が2015年2月25日に加計氏と15分程度面会したという学園から県への報告内容が記されており、5月23日の国会では安倍首相が第2次安倍政権後の首相と加計孝太郎理事長との面会について、「(新聞の)首相動静で確認できたものが14回」「フェイスブックの写真などで確認できたものが5回」の計19回だとしたにもかかわらず、26日には加計学園が「当時の担当者」にすべてを押し付けるコメントを出した(「加計学園がコメント発表『誤った情報を与えた』」朝日デジタル 2018年5月26日)。
アメリカンフットボールの日本大学と関西学院大学の定期戦で日大選手が関学大選手に悪質なタックルをして負傷させた問題では、背後からタックルをした日大3年の選手を守ろうとする姿勢は日大にはほぼ見えず、むしろ選手だけを悪者にして責任を押し付けようとしている。
本来、責任を取らねばならない側の責任が、結局のところ宙に浮いてしまっている。この光景には、既視感がある。この国が、73年前の敗戦の時と精神的に変わっていないのではないかと感じるのだ。
日本を敗戦へと追いやった戦前日本のファシズムの特徴について、政治学者の丸山眞男は「無責任の体系」と評した。
すなわち、責任を負うべき立場の者が責任回避をすべく、権限の曖昧(あいまい)化と逃避を特徴とする「無責任の体系」と、組織内の権力者との距離の近い者から遠い者へと連なる縦軸のなかで、抑圧の移譲による精神的均衡の保持という現象が生じると、1949年の論文「軍国主義者の精神形態」で丸山は説いたのだった。
そこで描かれているのは、自己にとって不利な状況のときには、いつでも法規で規定された厳密な職務権限に従って行動する役職になりすまし、部下が勝手にやったこととして、政治的責任を免れようとする態度である。
それが、敗戦から73年を経た現在、各個人に対して自己責任論を説く政治をさんざんあおり、責任の個人化をイデオロギーとして植え付けようとしていた政治指導者らを筆頭に、自分が不利になると無責任を決め込む事態が、またしても起きているのである。
日大アメフト部をめぐる問題を見ていると、このような振る舞いをする政治指導者のひそみに、大学側が倣っているようにさえみえる。ろくに調査もすんでいないのに、「監督からの指示はなかった」として、大学側がフライングで結論を発表するところなぞ、現在の日本政治をなぞっているとしか思えない。
だが、悪質タックル問題をめぐっては、政治と明らかに対応が違うところもある。それは、事件を起こした日大アメフト部の選手が自ら、少なくとも事件後の会見では、自身の身を捨てることで、フェアプレーの精神へと回帰しようという気概をパブリックに見せたところである。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください