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歴史に学ぶ「朝鮮半島非核化問題」の真実(2)

アメリカの北朝鮮敵視政策と北朝鮮の核開発を朝鮮戦争以後の歴史的文脈で読む

菅英輝 京都外国語大学客員教授、九州大学名誉教授

アメリカの不倶戴天の敵であり続けた北朝鮮

 「歴史に学ぶ『朝鮮半島非核化問題』の真実(1)」では、朝鮮戦争が戦後の国際政治に与えた影響や、歴史上の意味について考えた。今回は、アメリカがなぜ、北朝鮮を敵視し続けたのかというところから、話を始めたい。

 アジア冷戦が激化する中、朝鮮半島は文字どおり、冷戦の「最前線」となった。そこで、アメリカは韓国と同盟を締結し、大規模な軍事・経済援助を実施することによって、韓国を支えた。アメリカはまた、米ソ冷戦、米中冷戦の構図の中で、北朝鮮の背後にはソ中が存在するという見方をとり、北朝鮮に対してずっと敵視政策を追求してきた。

 そういう「歴史の文脈」から見れば、アメリカにとって北朝鮮は不倶戴天(ふぐたいてん)の敵であったし、この状況は米朝首脳会談まで変わらなかった。

アメリカは善玉で北朝鮮は悪玉というイメージ

昨年11月に試射が行われた大陸間弾道ミサイル(ICBM)と発射台車両を視察する金正恩朝鮮労働党委員長拡大昨年11月に試射が行われた大陸間弾道ミサイル(ICBM)と発射台車両を視察する金正恩朝鮮労働党委員長

 日本では、アメリカが善玉で北朝鮮は悪玉というイメージで語られる傾向が強い。これまで、メディアや論壇は、北朝鮮の核兵器保有に非難を集中させてきたが、なぜ北朝鮮の指導者が核とミサイルの開発に乗り出さざるを得なかったかという問題関心は、非常に希薄である。それは「歴史の文脈」の中で、朝鮮戦争の意味を理解することを怠っていることの帰結だいってよい。

 朝鮮半島問題の権威ある歴史家として著名なシカゴ大学のブルース・カミングスは、『ネーション』誌への寄稿文(2017年3月23日)の中で、朝鮮半島で危機が起こると、アメリカのメディアはそのつど、米朝間で過去に起きた危機や歴史的経緯を切り離して、別個のものとして報道する、と指摘している。

 さらに、菅英輝・初瀬龍平編『アメリカの核ガバナンス』(晃洋書房、2017年)に掲載されている論文では、こうも述べている。

 「当時韓国に何百もの核兵器が配備されているなかで、北朝鮮は1950年代からアメリカの核兵器の脅しを繰り返し受けてきた、世界で唯一の国である」。そうした状況の下で、「北朝鮮が核抑止を追求するのは当然の理だ」、「しかし、こうした重要な背景はアメリカの主流な言説には見られない」。

 カミングスが指摘するメディア報道の在り方は、日本社会でも見られる現象である。日本で支配的な北朝鮮イメージに鑑み、朴正煕大統領が核開発の決断を行ったときの状況と、北朝鮮が核開発に着手したときの状況を振り返ってみるのは意味がある。

韓国の朴大統領が核開発に着手したわけ

 ニクソン大統領は、グアム・ドクトリン(1969年7月)の朝鮮半島への適用によって、在韓米軍6万4千人を72年までに4万人に削減する決定を一方的に通告した。この通告は71年7月、朴正煕大統領の強い反対を押し切って実施された。この措置は、削減した部隊をヴェトナムに振り向ける必要から採られたものだが、韓国軍部隊を南ヴェトナムに派兵し、同盟国としてヴェトナム戦争の遂行に大きな貢献をしていると自負していた韓国政府にとって、大きな衝撃となった。

 68年1月21日に北朝鮮のゲリラ部隊が朴大統領の暗殺を狙って大統領官邸を襲撃する事件が発生、その2日後に米情報収集艦プエブロ号が北朝鮮に拿捕(だほ)されるに至り、当時の南北および米朝の間には、厳しい緊張が漂っていた。ニクソン政権がこれらの事件に対して優柔不断な対応を取った結果、朴大統領はアメリカの「核の傘」への不安と同盟理論にいう「見捨てられ」の危険に直面しているとの危機感から、71年11月、独自の核兵器開発に乗り出した。

 北朝鮮の核開発問題を論じる場合、このことを想起する必要がある。国家が存亡の危機に置かれていると指導者が感じたとき、核開発に乗り出したのは北朝鮮だけではない。アメリカの同盟国である韓国でさえ、安全保障上の危険にさらされていると感じたとき、核開発に着手した。

 さらに言えば、1949年8月のソ連の核実験、1964年10月の中国の核実験もまた、アメリカの核の脅威に対抗するために、ソ中両国が核開発に着手したことの帰結である。

核・ミサイル問題はアメリカの北朝鮮政策の帰結

1970年代の朴正熙・韓国大統領拡大1970年代の朴正熙・韓国大統領

 韓国はその後、アメリカの強い圧力の下で、核兵器開発を断念したものの、朴正煕大統領が核開発の決断を行ったときの状況は、朝鮮戦争以来、北朝鮮が置かれてきた状況と似ている。その意味で、北朝鮮が自国の生存と体制維持のために、核兵器とミサイルの開発に乗り出したことは驚くにあたらない。

 ところが、今日の日本社会では、朝鮮戦争以来、アメリカが追求してきた北朝鮮の体制転換と、核の脅しを伴う北朝鮮敵視政策の歴史を無視し、北朝鮮を「ならず者国家」として描き、北朝鮮に最大限の制裁と圧力を加えることで、北の核とミサイルの放棄を迫る外交が展開されている。しかも、そのようなアプローチに全面的な正当性があるような言説が作りあげられてきた。

 北朝鮮の核・ミサイルの存在が、日本の安全保障にとって脅威となっているのは事実であり、そのような脅威にどう対処するかは、日本外交にとって喫緊の重要な課題である。だが、このような深刻な状況に陥ったのは、アメリカの北朝鮮政策の帰結であり、アメリカに同調してきた日本政府も責任の一端を担ってきた。

 とすれば、この際、上述のような「歴史の文脈」の中で、米朝首脳会談に至る過程を考えることが必要ではないか。

 今回の「朝鮮半島の非核化」問題で、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が、北朝鮮の安全と体制が保証されれば、核兵器を保有しなければならない理由はないと述べていることに対して、その信憑性に疑いの目が投げかけられている。拉致問題や核開発に焦点が当てられ、北朝鮮への不信が常態化している日本社会の現状では、北朝鮮の言動を「歴史の文脈」から切り離して理解しようとする傾向が顕著だが、それでは北朝鮮への対応を誤りかねない。

冷戦後の新たな敵とされた北朝鮮とイラク

 もう一つ指摘したいことがある。北朝鮮の核開発疑惑問題が浮上した1993-94年の時期は、冷戦が終結して間もないころであり、当時アメリカは、冷戦終結後の外交目標を見失い、新たな目標を模索していた時期にあたる。

 冷戦後のアメリカ外交の目標を新たに定義する必要に迫られて設置された「アメリカ国益委員会」は、1996年に作成した報告書で、次のように述べている。

 「冷戦が終わって、アメリカ国民の外交への関心は急激に低下し、政治指導者たちは、当面の国内問題に関心を払わざるを得なくなっている。ソ連共産主義の膨張を封じ込めるということを40年にもわたって、脇目もふらずに、異常なまで追求してきた後、われわれは過去5年間、場当たり的な対応をしてきた。このような漂流状態が続けば、われわれの価値、われわれの運命、そしてわれわれの生活そのものが脅かされることになるだろう」

 このような危機感のもと、ペンタゴンは冷戦後の軍事戦略の再検討を行っていた。マイケル・クレア『冷戦後の米軍事戦略―新たな敵を求めて』(かや書房、1998年、英語版1995年刊行)によると、1990年頃から、ペンタゴンは「脅威の空白」を埋めるために、ソ連の脅威に代わる新たな敵の発見を模索し、冷戦期と同じ規模の軍備の温存を正当化する戦略の青写真を作成し始めていた。その検討過程で、ソ連の脅威に相当する敵を見出すことはできず、冷戦期のレベルの軍事力と国防予算を維持するためには、二つの敵が必要だとされた。

 その結果採用されたのが、「二正面対応能力戦略」だ。そこで潜在的敵国として想定されたのがイラクと北朝鮮であることは、よく知られている。

 このような「歴史の文脈」で考えると、北朝鮮の核開発疑惑の浮上によって朝鮮半島の危機が強調されることは、ペンタゴンをはじめ、アメリカ政府にとっては、好都合であった。核開発疑惑問題は、北朝鮮が「ならず者国家」で、危険な存在であるというイメージを際立たせるのに効果的だったからだ。

 北朝鮮が核開発を進めていることは、少なくとも、ゴルバチョフソ連共産党書記長の訪日直後の1991年4月には、日本政府も認識しており、北朝鮮の核開発への懸念をソ連側に伝えていたことが分かっている。アメリカ政府も当然そうした情報を持っていた。

 このような経緯を踏まえると、なにゆえ、北朝鮮の核開発疑惑問題が1993-94年になって浮上したのか、疑問を禁じ得ない。冷戦後にペンタゴンがソ連の脅威に代わる敵の発見を模索していたという経緯からすれば、北朝鮮の核兵器開発疑惑問題は、その格好の標的とされたとも考えられる。

安保再定義にも好都合だった北朝鮮の脅威

「日米安保共同宣言」に署名したあとに握手するクリントン大統領(左)と橋本首相=1996年4月17日拡大「日米安保共同宣言」に署名したあとに握手するクリントン大統領(左)と橋本首相=1996年4月17日

 1993-94年に突如として出現した北朝鮮の核開発疑惑問題は、トランプ政権が現在、問題にしているような、アメリカ本土の安全を脅かす性格のものではなかった。

 むしろ、北朝鮮の核開発が韓国の核兵器開発を誘発し、朝鮮半島の核化が日本の核武装論に飛び火することを防ぐために、北朝鮮の脅威が強調され、ヨンビョンの核施設の破壊を意図した作戦計画が発動される寸前までエスカレートしたというのが、真相であろう。

 そうした北朝鮮の脅威はまた、1994年秋から始まる安保再定義には好都合であった。冷戦後に目標を見失って漂流を続けていた日米安保の存在意義を改めて定義する必要が生じる中、日米の外交・安保問題の専門家の間で安保再定義に関する協議が開始され、再定義は1996年4月のクリントン訪日の際に発表された日米安保共同宣言で、当面の目的を達成することになる。

 こう考えてくると、朝鮮半島の分断体制と核問題は、アメリカの冷戦後のアジア戦略のもとで継続してきた北朝鮮敵視政策と、コラボレーター(協力者)としてワシントンの政策を補完してきた日本政府の対応を視野に入れて初めて、物事の両面を理解できると思われる。

 次回(3)では、大国間の政治に翻弄されてきた冷戦期の朝鮮半島の歴史と、冷戦後に生じた東アジア国際政治の変動を振り返りつつ、今回の米朝首脳会談に至る流れについて考察します。24日に「公開」予定です。

 


筆者

菅英輝

菅英輝(かん・ひでき) 京都外国語大学客員教授、九州大学名誉教授

1942年生まれ。専門はアメリカ政治外交史、冷戦史。オレゴン大学政治学科卒業。ポートランド大学大学院政治学修士課程修了。コネチカット大学大学院博士過程修了。法学博士。著書に、『冷戦と「アメリカの世紀」』(岩波書店、2016年)、『アメリカの世界戦略』(中公新書、2008年)、『アメリカの核ガバナンス』(初瀬龍平との共編著、晃洋書房、2017年)、『冷戦変容と歴史認識』(編著、晃洋書房、2017年)、『アメリカ20世紀史』(共著、東京大学出版会、2003年)、『アメリカの戦争と世界秩序』(編著、法政大学出版局、2008年)、『冷戦史の再検討』(編著、法政大学出版局、2010年)など。