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歴史に学ぶ「朝鮮半島非核化問題」の真実(3)

大国間政治に翻弄された20世紀から変化した21世紀の東アジアの国際環境の中で

菅英輝 京都外国語大学客員教授、九州大学名誉教授

 今から約70年前の朝鮮戦争以来、東アジアやアメリカがたどった歴史を振り返った「歴史に学ぶ『朝鮮半島非核化問題』の真実(1)」、その間、米国が北朝鮮に対する敵視政策を追求した続けた理由を見た「歴史に学ぶ『朝鮮半島非核化問題』の真実(2)」に引き続き、話を続ける。今回は初の米朝首脳会談に至る流れについて、あらためて考えてみる。

米中和解を機に変容した米ソ中の関係

ワシントンでおこなわれた反ベトナム戦争集会で学生たちと対話を試みるニクソン米大統領(左から3人目)=1970年5月9日拡大ワシントンでおこなわれた反ベトナム戦争集会で学生たちと対話を試みるニクソン米大統領(左から3人目)=1970年5月9日

 1972年の世界を驚かせたニクソン米大統領の中国訪問と米中の和解によって、アジアにおける冷戦の構図は大きく変容した。

 米中和解は、ニクソン政権がヴェトナム戦争からの名誉ある撤退を目指したことが背景にあった。アメリカは73年1月、ヴェトナム和平協定に調印する。さらに、両国関係の改善は、米ソのデタントも促した。結果的に米中冷戦は終焉を迎え、米ソ中のトライアングルの構図も大きく変容したのである。

 ただ、こうした変化にもかかわらず、朝鮮半島については、分断体制が大きく変わることはなかった。なぜなのか?

 それを理解するには、冷戦期に大国間政治に翻弄されてきた朝鮮半島の歴史と、冷戦終焉後に生じた東アジア国際政治の構造的変動を振り返ってみる必要がある。

大国間政治に翻弄された朝鮮半島

 朝鮮半島は冷戦期、一貫して大国間政治に翻弄され、南北の分断という構図は基本的には変わらなかった。冷戦が米ソの体制間競争という性格を有していたこともあり、安全保障の面で、南北双方は西側陣営、東側陣営にそれぞれ身を置くことになった。

 具体的には、韓国はアメリカが提供する安全に、北朝鮮は中ソが提供する安全(1961年7月、ソ朝友好協力相互援助条約、中朝友好協力相互援助条約の締結)に依拠することで、自国の安全の確保に努めてきたのである。

戦争終結をめぐり、北朝鮮と中ソに溝

 大国の政治的思惑に翻弄される構図は、朝鮮戦争が「休戦」に至るプロセスでも鮮明だ。北朝鮮は52年末に、戦争の終結を望むようになっていた。戦闘により多大な被害が生じていたことにくわえ、記録的な水害が農村部に深刻な飢饉をもたらしたからだ。

 ところが、北を支援する中ソ両国の指導者の思惑は違った。アメリカを朝鮮半島にくぎ付けにしておくことは、自国の工業化と国防力の強化の時間稼ぎに有益なうえ、戦闘の膠着状態は、アメリカの国力を消耗させるのに効果的だと考えたのだ。

 実を言うと、中国は52年夏には、国内の経済建設と工業化を重視する政策に方針を転換、戦争の早期終結を模索し始めていた。ただ、朝鮮戦争参戦で、ソ連からの軍事・経済援助に深く依存することになった中国指導部は、モスクワの意向を無視することができなかったのである。ようやく戦争終結に向けて歯車が回り始めたのは、スターリンが53年3月5日死去し、クレムリンが集団指導体制に移行したのちのことであった。

停戦に反対し続けた韓国の李承晩政権

1951年7月に開城(ケソン)で朝鮮戦争の休戦会談が始まった(休戦協定調印は1953年7月27日)。写真は会談に臨む国連軍側の代表団拡大1951年7月に開城(ケソン)で朝鮮戦争の休戦会談が始まった(休戦協定調印は1953年7月27日)。写真は会談に臨む国連軍側の代表団

 一方、韓国の李承晩政権は、南北の武力統一を主張して、停戦交渉に反対し続けた。アメリカは李承晩大統領を排除して休戦交渉を進めようとしたが、反発した李承晩は、停戦交渉の最大の障害となっていた双方の捕虜交換問題で、北朝鮮への帰還を望まなかった捕虜2万5千名を一方的に釈放。交渉は決裂し、戦闘が再開した。

 それでも、アメリカは53年に米韓相互防衛条約を締結(8月仮調印)する見返りに李承晩の反対を抑え込み、53年7月27日にようやく休戦協定が締結されたのである。

 停戦交渉が長引いたこともあり、朝鮮戦争は、南北双方に380万ともいわれる犠牲者(兵士、民間人の死傷者、行方不明者)が出るという、悲惨な結果となった。停戦協定にはアメリカと中国、北朝鮮が署名。韓国の李承晩政権は署名を拒否したものの、休戦協定は尊重するという立場をとった。

 4月27日の韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長による南北会談で合意した板門店宣言で、停戦協定を平和協定に転換すると記され、それが交渉の重要な焦点の一つとなったが、そういう歴史的経過が背景にあるのである。

改革開放路線と新思考外交を受けて

 1978年末、中国は「改革開放路線」に舵(かじ)を切った。また、85年3月にソ連共産党書記長に就任し、冷戦の克服を目指したゴルバチョフは86年7月のウラジオストク演説を皮切りに「新思考外交」を展開。そうしたなか、中ソ両国は、朝鮮半島を含む東アジア国際環境が、平和で安定することが好ましいと考えるようになった。

 こうした流れを受け、日ソ関係、あるいは日中関係において改善の動きが生まれると同時に、朝鮮半島においても緊張緩和の動きが出てきた。

訪ソした宇野宗佑外相(左)を迎えたミハイル・ゴルバチョフ書記長(中央)とエドゥアルド・シェワルナゼ外相=1989年5月5日拡大訪ソした宇野宗佑外相(左)を迎えたミハイル・ゴルバチョフ書記長(中央)とエドゥアルド・シェワルナゼ外相=1989年5月5日

 そこでイニシアティブを発揮したのは韓国である。韓国は「クロス承認」政策(1984年~)、「北方外交」(共産圏積極外交、1988年春~)を展開し、90年9月には韓ソ国交樹立、ついで92年8月には韓中国交樹立を実現した。

 ゴルバチョフは、国内ではペレストロイカをスローガンに掲げて改革を推進、対外分野では新思考外交を掲げて冷戦の克服を目指した。ソ連経済の立て直しには、大きな負担となっていた国防費の削減は不可欠との認識をもつゴルバチョフには、急成長を遂げた韓国の経済力と技術力は魅力的に見えた。それが韓ソの国交樹立につながった。

 中国もまた、改革開放政策を進めるために、韓国や日本との関係改善は重要だと考えた。韓中国交樹立はそうした文脈の中で実現した。

北の核開発を加速したソ連の対北政策

 しかし、韓ソ国交樹立に向けた過程において、ゴルバチョフ政権がとった北朝鮮への対応は、北朝鮮を孤立させた。北朝鮮の核開発は、一義的にはアメリカの北朝鮮敵視政策に対抗するものであったが、ゴルバチョフの対北朝鮮政策もまた、そうした流れを加速した点は看過すべきではない。

 韓国が「クロス承認」政策を掲げ、日本やアメリカだけでなく、ソ連への接近を進めていたことは、北朝鮮指導部も認識しており、韓国の「クロス承認」政策や「北方外交」は、朝鮮半島の分断を固定化するとして、強く反対してきた。しかし、ゴルバチョフは北朝鮮の働きかけに耳を貸さず、北との協議なしに韓ソ国交樹立を断行した。

 象徴的な場面がある。韓ソ国交樹立について説明するため、ソ連のシュワルナゼ外相が90年9月平壌を訪問したときのことだ。北朝鮮の金日成主席は同外相には会うことを拒絶。対応したのは、金永南外相であった。そのとき金外相が行った抗議の内容が興味深い(以下は、金成浩論文『アメリカの核ガバナンス』晃洋書房、2017年、212-215頁による)。

韓国の「クロス承認」で高まった北の危機感

 第一に、約束違反の指摘である。金外相は、86年10月の会談でゴルバチョフが「いかなる場合も、南朝鮮との関係で原則的立場の変化はない」と明言しこと。さらに、88年12月に訪朝したシュワルナゼ外相との会談で、シュワルナゼが韓国との外交関係を樹立しないという方針に変更はないと発言したことを問題視した。

 第二に、ソ朝友好協力相互援助条約(1961年)違反を指摘した。同条約第3条には、「両国の利益に関わるすべての重要な国際問題を審議する」とある。にもかかわらず、事前に何の相談もなかったとソ連を批判。そのうえで、条約を破棄する場合は、北朝鮮は独自の力で問題解決の道を探らなければならないと述べ、独自の核開発を示唆。また、韓国にアメリカの核兵器がある以上、対抗するための兵器開発が必要だと警告し、核不拡散条約からの脱退の可能性にも言及した。

 第三に、ソ連の行動は、韓国とアメリカの陰謀に加担しているとの批判を展開。米韓は、北朝鮮の体制転覆をはかろうとしている、と強い警戒心を示した。

 1984年に韓国が着手した「クロス承認」政策は、南の韓国側のみが、ソ連や中国と国交を回復する片務的なものとなった。北朝鮮からすれば、社会主義国同士の信頼関係を裏切る行為だと受け止められた。

 このときの北朝鮮の孤立感と危機意識は、相当なものであったことだろう。シュワルナゼ外相が1990年9月上旬、韓国との国交正常化の説明に平壌に赴いたとき、金日成が同外相との面会に応じなかったのも頷ける。

活路を求めた日朝国交正常化も実現せず

北朝鮮を訪問した自民、社会両党の代表団団長、金丸信元副総理(左)、田辺誠社会党副委員長(右)は妙香山で金日成主席(中央)と会談、記念撮影に納まった=1990年9月26日拡大北朝鮮を訪問した自民、社会両党の代表団団長、金丸信元副総理(左)、田辺誠社会党副委員長(右)は妙香山で金日成主席(中央)と会談、記念撮影に納まった=1990年9月26日

 そこで、北朝鮮が活路を求めたのが日本であった。

 同月下旬、北朝鮮を訪れた自民、社会両党の代表団、いわゆる「金丸訪朝団」に対して金日成主席は、「連絡事務所を開設する」という日本側の提案にいきなり、「国交締結」を逆提案した。それは韓ソ国交回復に対する北朝鮮なりの危機感の表れであった。

 韓ソ、韓中の国交樹立に向けた動きに危機感をおぼえ、日朝国交樹立に積極的になった北朝鮮。日本との間で、1991年1月から92年11月まで合計8回の国交正常化交渉が行われたが、巨額の賠償をめぐって折り合いがつかず、両国は正常化を実現できなかった。

 このように冷戦が終結に向かう1990年前後、朝鮮半島では分断状況を克服する様々な動きが関係各国の間にあった。ただ、この時点では上述のような理由で、南北の分断体制の克服にはつながらなかった。

南北朝鮮がイニシアティブを発揮できる状況に

 その後、21世紀に入り、東アジアの国際環境は大きく変化した。

 具体的には、中国の台頭であり、ソ連の崩壊であり、アメリカのヘゲモニーの後退である。その結果、朝鮮半島におけるパワーバランスに構造的変動が生じ、南北朝鮮がイニシアティブを発揮できる状況が生まれている。

 3月以降、本格化した朝鮮半島の非核化に向けたイニシアティブが、南北朝鮮の首脳によって取られていることは、そのことを如実に示している。

 たとえば、北朝鮮による核保有と大陸間弾道ミサイル開発の成功は、93~94年の核開発疑惑問題が浮上して以降の、アメリカの対北朝鮮圧力政策が行き詰まったことを示している。アメリカが今回、半島の非核化問題で北朝鮮と交渉のテーブルにつかざるをえなくなったのは、その結果とも言える。米日による「最大限の圧力」にその要因を求める言説があるが、それは一面的な見方である。

変動する米朝のバランス・オブ・パワー

 もっとも国連安保理制裁決議にもとづく北朝鮮への制裁が、中国の習近平政権の協力もあって、北朝鮮を経済的にこれまでになく苦境追い込んでいたのも事実である。金委員長が中国訪問を繰り返したのは、その現れである。

 だが同時に、米朝のバランス・オブ・パワーが、後ろ盾となっている中国のパワーの台頭もあり、アメリカに不利に傾きつつある変化を軽視すべきではない。米朝首脳会談に踏み切ったトランプ大統領の決断は、そうした変化の現れとみることも可能だろう。

 核兵器の保有とミサイル開発の成功により、北朝鮮はアメリカとこれまで以上に対等な立場で、半島の非核化問題の交渉に臨める状況になった。その結果、金委員長が「併進路線」において立ち遅れが目立つ経済発展に力点を置くよう路線転換を行い、米国との交渉を決断したとみることもできる。アメリカもまた、北の核・ミサイル開発を無視できず、交渉のテーブルにつかざるを得なくなったと考えられる。

追い風になった韓国の緊張緩和政策

板門店で板門店宣言について発表し、握手を交わす北朝鮮の金正恩委員長(左)と韓国の文在寅大統領=2018年4月27日拡大板門店で板門店宣言について発表し、握手を交わす北朝鮮の金正恩委員長(左)と韓国の文在寅大統領=2018年4月27日

  さらに、韓国に文在寅政権というリベラル政権が出現し、金大中政権の「太陽政策」以来追求されてきた朝鮮半島の平和的統一に向けた緊張緩和政策が、追い風となっている面もある。先述の板門店宣言(4月27日)はその結果と言っていい。

 「南と北は、わが民族の運命はわれわれ自らが決定するという民族自主の原則を確認し、すでに採択された南北共同宣言とすべての合意を徹底的に履行することで、関係改善と発展の転換的局面を開いていく」

 板門店宣言が高らかにうたう「民族自主の原則」の確認は、大国の政治的思惑に翻弄され続けてきた朝鮮半島において、南北両首脳がはじめてイニシアティブを発揮するのだという意思の表明でもある。

 最終回(4)では、戦後の日本外交を振り返り、アメリカとの関係にみられる「ある特徴」について論じたうえで、今回の米朝首脳会談後、朝鮮半島の非核化問題に日本政府がどう取り組むべきか、提言します。28日に「公開」予定です。


筆者

菅英輝

菅英輝(かん・ひでき) 京都外国語大学客員教授、九州大学名誉教授

1942年生まれ。専門はアメリカ政治外交史、冷戦史。オレゴン大学政治学科卒業。ポートランド大学大学院政治学修士課程修了。コネチカット大学大学院博士過程修了。法学博士。著書に、『冷戦と「アメリカの世紀」』(岩波書店、2016年)、『アメリカの世界戦略』(中公新書、2008年)、『アメリカの核ガバナンス』(初瀬龍平との共編著、晃洋書房、2017年)、『冷戦変容と歴史認識』(編著、晃洋書房、2017年)、『アメリカ20世紀史』(共著、東京大学出版会、2003年)、『アメリカの戦争と世界秩序』(編著、法政大学出版局、2008年)、『冷戦史の再検討』(編著、法政大学出版局、2010年)など。