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この国にエリート官僚は必要か?(下)

もはやエリートとして遇する気はない国民。それでもキャリア官僚が必要なわけは?

中野雅至 神戸学院大学現代社会学部教授

 「この国にエリート官僚は必要か?(上)」「この国にエリート官僚は必要か?(中)」で官僚というエリートの存在の変遷について、歴史的に考察してきた。官僚がエリートの地位から没落しつつあることを四つの角度から検証し、国民はエリートに対する許容度は高いものの、エリート公務員制度を維持するためのコストを支払うことをためらっていることを明らかにした前回に引き続き、今回は国民の官僚に対する見方を具体的に分析し、官僚をエリートとして復権させる必要があるかないかについて論じたい。

「エリートとして遇しない」が国民の本音

セクハラ研修を受ける財務省の幹部ら=2018年5月9日、東京・霞が関拡大セクハラ研修を受ける財務省の幹部ら=2018年5月9日、東京・霞が関

 キャリア官僚制度を維持することのコストは、表面的にはそれほど大きくない。ノンキャリアの国家公務員よりやや高めの報酬が支払われるにすぎず、公務員全体の人件費の中ではそれほどではない。昇進のスピードが早いことも、一般国民に実害を与えるとは考えられない。

 もちろん、キャリア官僚制度を維持するコストはこんな表面的なことにとどまらない。キャリア官僚制度が天下りなどの特権と結びついてきたことは言うまでもないし、利権を温存しようとする行動が日本経済全体の足を引っ張る一因とも見なされてきた。

 ただし、それらをすべて考慮したとしても、エリート公務員制度を維持することのコストはそれほど高いものだとは考えられない。にもかかわらず、これまで幾度も公務員制度改革が行われてきたし、今も昇進や天下りなどをめぐり、改革が継続している。

 これらの動きから判断すると、もはや官僚をエリート集団として遇する気はないというのが国民の本音だと考えられる。識者の中には「エリートして処遇するべきだ」という意見を述べる者もいるが、世間の反応を気にしているのか、その声は圧倒的に小さい。

 政治権力を牽制する存在にもならず

 次に、少し違った角度から考えてみよう。

 昨今、第2次安倍内閣のもとで起きた森友・加計学園問題などで、強すぎる官邸や政治主導が疑問視されるようになっているが、官僚を強大化する政治権力を牽制(けんせい)するエリートとしてとらえられないだろうか。これについても、政治主導体制が構築されて間もないこともあるのか、一部のマスコミにそうした論調は見られるものの、国民や世論の間に、そのような動きは見られない。

 とはいえ、「官僚がエリートである」という意識だけは、国民の間にいまだに浸透している。それは、マスメディアが官僚をしばしば「選ばれたエリート」として扱うことからも伺えるし、日常生活の中で東大出身者を過剰に敬う姿勢にもよく現れている。身近なところでいえば、高学歴者が出演するクイズ番組が人気を博しているのはその証左である。

 学歴への根強い信奉を考えると、いかに不祥事を起こそうとも、官僚への信頼は容易には崩れないのもわかる。また、バブルの崩壊後に官僚バッシングが起こるなか、官僚のあり方が多様化し、様々な世界で活躍する人たちが出現したことは、皮肉にも、官僚はやはり優秀であるということを再認識させた可能性がある。

 官僚の優秀さが疑われてきた要因の一つに、しょせんは官庁の利権や人脈などのコネクションを使って社会的地位や立場を作っている、ということがあったが、天下りをしなくても、自力で政治や経済、学者やマスメディアの世界に転身して成功を収める官僚が続出すれば、やはり官僚は優秀だという評価はより一層強まっていくと考えられる。

もはや実態のないブランドに

 これらのことをすべてまとめると、社会の官僚に対する考え方や思いといったものはどう総括できるだろうか。

 社会には、根強い学歴信仰が基盤としてあるので、官僚への敬意には盤石なものがある。ただし、それはあくまで学歴エリートとしての側面を基盤にしたものであって、政治エリートとして官僚に過剰な権限や権力を付与して重要な役割を担わせようとしたり、特権を与えようとしたりということではない。

 その意味では、官僚はもはや特権を与えられたエリートではなく、実態のないブランドに近づきつつあると考えられる。それは、なにより集団として遇することがもはやないという一事から明らかだ。

 官僚が日本社会で類い希なエリートであることの証は、長期間にわたって集団として特別な扱いを受けてきたことにある。政界や経済界のエリートは、世間からの敬意を受けることはあったとしてもあくまで個々人ベースであり、エリート集団として扱われることはない。誰も衆議院議員をエリート集団とは言わない。彼らのバックグラウンドは多様であり、同一集団として扱うことは適切ではないからである。

 集団としてこれだけ長期間にわたり、特別扱いを受けてきたのは官僚だけである。今後はエリートというブランドは残るものの、特権や権限の裏付けのある集団として扱われなくなる傾向が強くなるだろう。その結果、官僚の多様性が強まり、同じ理念・目的意識・利害を共有する集団ではなくなる可能性が高まるだろう。また、多様性が高まり、官僚の社会認識も大きく変化することから、官僚と社会の間の亀裂が深まることが予想される。

それでもキャリア官僚は必要だ

 そろそろ結論を急ごう。バブル経済の崩壊後、権力や技能や集団性の見地から考えると官僚がエリートとしての地位を滑り落ちていることは間違いない。国民側も、それをそのまま素直に受け止めている。学歴への敬意が残存しているだけで、権力を持ったエリートして官僚復活を望むのが大勢だとは考えられない。

 それではこのままエリートは不要だと結論づけていいのだろうか。明治以来、キャリア官僚をエリートとして育成してきた伝統をそんな簡単に不要だと結論づけていいのか。

 本稿の結論から述べることにしよう。キャリア官僚制度は必要である。彼らを依然、エリートとして扱うことは重要である。

 なぜか。ポピュリズムが支配する世の中では、社会があまりにも流されやすいからである。少数者の意見は無視され、安易な多数派の意見が世の中を支配するからである。多数派の意見が間違っている可能性があるにもかかわらず、である。

 そういう世の中だからこそ、時に歪(ゆが)んでとはいえ、強いプライドを持ち、世の多数派の意見に流されない傲慢(ごうまん)さや頑固さをもったエリートが必要なのである。短期的な損得に流されず、長期的な視点から物事を考えることのできる知的エリートは、絶対に必要だ。

これからの官僚に求められるもの

大揺れに揺れた財務省の庁舎。エリートは立ち直るのか?拡大大揺れに揺れた財務省の庁舎。エリートは立ち直るのか?

 それは政治主導体制が確立された今を考えればわかりやすい。民主主義の社会では政治家に権力を集めることが正当化されるとしても、彼らはやはり短期的な損得に流されやすいからである。

 ただし、官僚をエリートとして扱うことが重要だからといって、かつてのような特権的な扱いや労働条件、権力的な地位を保証する必要は全くない。なぜなら、これからの官僚は、特権を与えられて満足しているような弱々しい存在では困るからである。そのような受け身の姿勢で地位を維持するしかない人間は、政治家に忖度(そんたく)するのが関の山であり、多数派の意見に異を唱えられるような強いエリートにはなり得ない。

 これからの官僚に求められることは何か。まず、なによりも国民からある程度の支持を受けることが不可欠である。多数派の意見に流されてはならないとはいえ、多数派が全く必要性を感じない少数派であることも困るからである。

 とすれば、この20年間を振り返り、国民が官僚に求めているか、再考する必要がある。そのために、どうすればいいのか。 ・・・ログインして読む
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筆者

中野雅至

中野雅至(なかの・まさし) 神戸学院大学現代社会学部教授

1964年生まれ。90年に旧労働省に入省。旧厚生省生活衛生局指導課課長補佐、新潟県総合政策部情報政策課長、厚生労働省大臣官房国際課課長補佐などを経て公募により兵庫県立大学大学院助教授、教授。2014年4月から現職。著書に『天下りの研究』『公務員バッシングの研究』『没落する官僚-エリート性に関する研究』(明石書店)など。