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世界中が熱狂するW杯の原点とは

W杯の草創期から見えてくるスポーツと政治との不可分の関係

鈴村裕輔 法政大学国際日本学研究所客員学術研究員

ハノイの街角で見たW杯ロシア大会

サッカーW杯ロシア大会。2―2で引き分けた日本・セネガル戦の後、スタンドにあいさつする本田選手=2018年6月24日   拡大サッカーW杯ロシア大会。2―2で引き分けた日本・セネガル戦の後、スタンドにあいさつする本田選手=2018年6月24日

 先日出張で訪れたハノイはすでに夏の日差しが強く、時折降る強い雨も、会議室の窓越しに眺めると、ひときわ興趣の尽きない光景であった。

 だが、それ以上に興味深く思われたのは、ハノイの街中の至るところでFIFAワールドカップ(W杯)ロシア大会に関する情報に接することができたということだった。

 宿泊先では最上階のラウンジで、各国の試合を生中継されていた。昼食をとった食堂では、ワールドカップの星取表が店先に大きく掲げられていた。さらに、ハノイのノイバイ空港で日本に戻る便に乗るまでの間流れていたのは、ワールドカップを特集する国営放送VTV6の番組で、細身のネクタイを締めた司会者の進行で、各試合の見どころが紹介され、男性1人と女性2人のゲストが思い思いに試合の感想を述べていた。

 たとえば、世界で約170カ国、13億人が視聴したとされる1990年のワールドカップイタリア大会の開幕戦が、日本では地上波ではなく衛星放送でのみ中継されていたことを考えれば、自国が参加していないワールドカップをこれほど大きく取り上げるヴェトナムは意外にも見えるが、それだけサッカーが広くヴェトナムの人びとに根付いているのであろう。

 とはいえ、初期のワールドカップの歴史を眺めると、208の国と地域が予選大会に登録したロシア大会と、かつての大会とは様相が大きく異なっていたことが分かる。本稿では、W杯をめぐる現在の熱狂から少し離れ、政治の思惑に操られてきたその原点を追ってみたい。

最初は「申し込みゼロ」だった国際選手権

 周知のとおり、1回目のワールドカップは1930年にウルグアイで行われた。国際サッカー連盟(FIFA)が1904年に設立されてから26年がたっていた。

 実は、FIFAは当初からワールドカップと同じ類の国際選手権大会の設立を目指してきた。なぜなら、フランス、オランダ、スイス、デンマーク、ベルギー、スウェーデン、スペインの7カ国が参加してFIFAを設立した際、第一の目的とされたのが「国際選手権の開催」だったからだ。計画されたのは、加盟各国の代表による大会ではなく、加盟国内の優勝クラブを集めた、現在のFIFAクラブワールドカップに近い形式だった。

 しかしながら、1905年に大会規約を定めて参加国を募ったものの、参加の申し込みはなかった。設立して1年のFIFAには、多国間の利害を調整する能力も各国を指導する力も、さらに国際大会を主催するための資金力も不足していたのだ。

第1次世界大戦で遠のいた開催の機運

 その後もFIFAは国際選手権の開催を目指した。ところが、1914年7月28日にオーストリア=ハンガリー帝国がセルビア王国に宣戦布告すると、当初は短期間で終結すると思われた戦争が、ヨーロッパ全土を戦渦に巻き込む大戦争へと発展した。各国ともに前線と銃後とを分かたず、国力の全てを戦争の遂行のために用いる総力戦体制へと移行するなかで、国際選手権の開催の機運は遠のいたのであった。

 第1次世界大戦の勃発によって国際選手権の開催が不可能となったことは、FIFAにとって国際政治の影響を直接に受けた最初の出来事であった。まさに、社会の安定がなければ国際規模のスポーツ大会を開催することが出来ないという意味で、「スポーツと政治」の関係を考える上でも重要な事例と言えよう。

転機となったジュール・リメのFIFA会長就任

 人類がこれまでに経験したことのない世界戦争、「戦争を終わらせるための戦争」とも呼ばれた第1次世界大戦が終結したのは、開戦から4年後の1918年11月11日のことだった。1919年6月28日にはヴェルサイユ条約が締結され、その2年後の1921年、FIFAの第3代会長にフランスサッカー連盟会長のジュール・リメが就任する。

 FIFAの設立に携わり、国際選手権開催の計画の立案者でもあったリメは、戦争の終結によって国際選手権の実現が可能になったと考え、計画の再開を試みた。そのリメが国際選手権の開催の可能性を見いだしたのが、1924年に行われたパリ五輪だった。

 1905年の国際選手権に参加の申し込みがなかったことを踏まえ、FIFAの内部ではオリンピックで行われるサッカーを国際選手権として認めることが有力な案として検討されてきた。ただし、FIFAは国際選手権には職業選手を含む代表チームの出場を計画していた。そこで、アマチュア選手のみを対象としていたオリンピックに出場するためには参加資格の変更が不可欠であった。

 オリンピックの復活を提唱して国際オリンピック委員会(IOC)を創設し、人格形成の手段としてのスポーツの役割を重視していたピエール・ド・クーベルタンは、職業選手がオリンピックに参加することに強く反対していた。近代オリンピック運動の指導者であり、IOCの理論的、精神的な支柱でもあったド・クーベルタンの反対により、オリンピックの公式種目であるサッカーとFIFAの国際選手権を兼ねるという構想の実現は暗礁に乗り上げた。

 8回目となるオリンピックのサッカーでは、開催国フランスのほか、オランダやスウェーデンといったヨーロッパの強豪が参加した。その中で、米国とともに初めてアメリカ大陸から五輪のサッカーに参加したウルグアイがスイスを破って優勝するのを見たリメは、オリンピックのサッカーではなく、FIFA独自の催事として国際選手権を開催すること、その開催地を各国の利害が錯綜(さくそう)するヨーロッパではなく、南米とすることが可能ではないかと考えた。

 自らの直観を信じたリメは、各国のサッカー連盟を説得して回った。1928年のFIFAの総会で、1930年にFIFAのすべての加盟国が参加する新しい国際大会を開催することを決定。名称を「ワールドカップ」と定めた。1929年にバルセロナで開催されたFIFA総会で大会の実施案が了承され、第1回大会の開催国にウルグアイが選ばれたのだった。

13カ国で始まった第1回大会

 当初、第1回ワールドカップの開催国として立候補したのは、ウルグアイのほか、イタリアやハンガリーなど6カ国だった。各国とも「新しい大会の最初の開催国」という名誉を担い、国際的な名声を高めようと考えていた。

 ウルグアイは南米の小国であり、当選の可能性は低いと思われていた。しかし、1930年の独立100周年の祝賀行事の一環として大会を主催するという訴えが共感を呼び、各国は立候補を取り下げ、全会一致でウルグアイが開催国となった。

 こうしてFIFA創設以来の宿願であった国際選手権は、ワールドカップとして1930年に開かれることになった。だが、大会の開催が近付くにつれ、参加を明言していたヨーロッパ各国の反応が消極的になってきた。

 欧州各国はワールドカップへの意欲をなぜ、急速に失ったのだろうか? 理由は、ウルグアイという開催場所にあった。

 当時、すでに旅客機が実用化され、欧州域内で定期的に運行されていた。だが、ヨーロッパ大陸とアメリカ大陸を結ぶ旅客機の定期便は存在せず、欧州各国がウルグアイに行くためには、少なくとも片道2週間をかけて客船で大西洋を横断する必要があった。往復で4週間という移動時間にくわえ、大会の実施期間を考えれば、1カ月半にわたって祖国を離れることのできる選手を、最低でも11名集めなければならない。ハードルはあまりに高かったのだ。

 結局、リメが各国の連盟を説得、リメが会長を務めるフランスサッカー連盟のほか、ベルギー、ルーマニア、ユーゴスラビアがヨーロッパから参加することにはなった。これらの国はいずれもフランスの同盟国。同盟相手のフランスの面目を保つため、各国が参加を政治的に決断したことが窺(うかが)われる。

明暗を分けた二人の独裁者

 20世紀の世界史に名を遺(のこ)すヨーロッパの二人の独裁者といえば、ドイツのアドルフ・ヒトラーとイタリアのベニト・ムッソリーニであることに異論はないだろう。二人はともに国威発揚と国民統合の手段としてスポーツを活用したことでも知られる。だが、ワールドカップをめぐっては、明暗をわけている。

 周知の通り、ヒトラーは「民族の祭典」と称した1936年のベルリン五輪で ・・・ログインして読む
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筆者

鈴村裕輔

鈴村裕輔(すずむら・ゆうすけ) 法政大学国際日本学研究所客員学術研究員

1976年、東京生まれ。法政大学国際日本学研究所客員学術研究員。法政大学大学院国際日本学インスティテュート政治学研究科政治学専攻博士課程修了・博士(学術)。専門は比較文化。主著に『メジャーリーガーが使いきれないほどの給料をもらえるのはなぜか?』(アスペクト 2008年)、『MLBが付けた日本人選手の値段』(講談社 2005年)がある。日刊ゲンダイで「メジャーリーグ通信」、大修館書店発行『体育科教育』で「スポーツの今を知るために」を連載中。野球文化學會会長、アメリカ野球愛好会副代表、アメリカ野球学会会員。

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