潜伏キリシタン関連遺産の世界遺産決定の陰に隠された受難の歴史
2018年07月05日
というのも、ここに至るまでに推薦書の取り下げという異例の事態と、内容の変更という、“挫折”を経験してきたからだ。当初は教会群を強調するものだったが、現地調査をしたユネスコの諮問機関「イコモス」(国際記念物遺跡会議)の助言を得て改めて出されたのが、「長崎・天草の潜伏キリシタン関連遺産」だった。
潜伏キリシタンとは、江戸時代から明治時代初頭にかけて、キリスト教の信仰が禁じられた250年間にわたり、表向き仏教徒を装いながら、ひそかにキリスト教を信仰し続けたカトリックの信徒のことを言う。いくたびもの弾圧に屈せず、信仰を守り通した人々は世界史上に例がないと言われる。
ちなみに、「カクレキリシタン」という呼び方がある。厳密に言えば、1873年(明治6年)に禁教の高札が撤去された後も、カトリックに戻らず、潜伏キリシタン時代の信仰形態を守り通し、今日にも受け継いでいる人々のことだ(元長崎純心大学女子短期大学副学長、キリシタン研究家・片岡弥吉氏定義)。
その「地域」とは長崎市の浦上地区。市中心部の繁華街から北へ約2~5キロぐらいのエリアと考えればいいだろう。ちなみに「原子爆弾落下中心地碑」のある松山町は、浦上地区の中心部。そこから東北へ500メートルの位置に、カトリックの教会、浦上天主堂がある。小高い丘の上に建ち、レンガ色の壁が青空に映えて美しい。
いまの浦上天主堂は、戦後、新たに建造されたもので、1981年、ローマ法王、ヨハネ・パウロⅡ世の来訪に合わせて、現在の壁に改造されている。以前は、グレーの渋い外観だった。
初代の天主堂が完成したのは1925年(大正14年)。いまと同じ場所だ。キリスト教が禁じられていた江戸時代は庄屋の屋敷。毎年の「絵踏み」が行われた場所だった。今回、世界遺産に決まった他の地域の教会も、浦上同様、キリシタンが弾圧された土地に建てられている。
「土地の記憶というものがある。その土地が体験し、受け継いでいくべき記憶を生きている人たちがいるのです」
以前そう語ってくれたのは、長崎純心大学教授の古巣馨神父。ヨハネ・パウロⅡ世来崎の折、謁見した。今回、世界遺産に登録された地域の多い五島の出身。潜伏キリシタンの末裔(まつえい)だ。
五島の他、平戸、外海など、今回世界遺産となった地域とともに多くの潜伏キリシタンが存在していたのが浦上だった。浦上では、「崩れ」と称する信徒の検挙(弾圧事件)が何度も発生した。それでも棄教しなかった彼らの前に、一筋の光が差し込んでくる出来事が起きた。1864年(元治元年)。大浦海岸に近い丘に、教会が竣工したのだ。
「ワタシノムネ、アナタノムネトオナジ」「サンタマリアノゴゾウはドコ?」
宣教師が日本から追放されて約250年。7代に渡り潜伏していたキリシタンが自ら信仰を明かし、宣教師の指導の下に入った瞬間だった。
「信徒発見」と呼ばれるこの出会いをきっかけに、浦上をはじめ周辺の外海や、五島、平戸、天草などの離島に、計数万人ものキリシタンがいることが判明する。フランス居留民のための教会だった大浦天主堂が世界遺産となった理由は、「信徒発見」による場であったからだ。
神父との出会いによって
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