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科学研究費をめぐる学者攻撃にみる病理

反知性主義と排外的ナショナリズムが結合し、「反日」とレッテル貼り

山口二郎 法政大学法学部教授(政治学)

 今年の春ごろから、評論家の櫻井よしこ氏や彼女と結びついた自民党の一部議員が、私や大阪大学の牟田和恵氏、立命館大学の岡野八代氏が今まで受け取った科学研究費について、「国費を使って反日的研究を行っている」という誹謗中傷を繰り返した。自民党の右派議員はネトウヨに影響力を持っているようで、一時期ネット上で異常な攻撃が盛り上がった。

科研費の実態を知らない、荒唐無稽の攻撃

 これらの攻撃は荒唐無稽なものであり、科研費の実態を知らない素人の言いがかりである。研究費の申請にある研究計画は同じ分野の専門家による審査(ピアレビュー)によって評価され、ランク付けされる。最終的には日本学術振興会のもとにある研究者の委員会によって決定される。研究費は研究代表者の所属大学に交付され、国際会議の開催、世論調査、図書や資料の購入などに予算を執行する際には、国や大学の各種規則に基づいて行われる。コンプライアンスの強化が進み、不正の余地はない。私の場合、延べの金額が億円単位となったことで、文系の研究にしては巨額すぎるという非難もあった。しかし、2000年代には、21世紀COE(センター・オブ・エクセレンス=卓越した拠点)などの大型研究費が文系にも交付され、億円単位の研究費も珍しくなかった。

 右派が攻撃を加えた理由は単純で、牟田、岡野両氏はジェンダー研究の指導的存在で、従軍慰安婦問題などについても発言することがあった。私は、論壇での活動で安倍政権批判の先鋒の役割を担ってきた。安倍政権を支持する右派、歴史修正主義者から見れば、目障りな存在である。言論そのものに攻撃を加えるのではなく、現政権に批判的な学者が国の予算から巨額の研究費をもらっていることを攻撃した。学者としての研究成果や主張について批判しようと思えば、それ相応の準備が必要だし、言いがかりは成り立たない。巨額の研究費を受け取っていることと、政府を批判する主張をしていることを並べて、センセーショナルに騒ぐことで、右派は我々の信頼性を損なおうとした。もちろん、研究費には不正はなく、右派の騒動もネタがつき、最近は沈静化した感がある。

 大学、特に人文社会系の研究(者)に対する政治的攻撃は第2次安倍政権の発足とともに始まっている。3年前には、文科大臣が「国立大学も儀式の際に日の丸掲揚、君が代斉唱を行うことが望ましい」と発言した。また、人文社会系のリストラの圧力は様々な形で強まっている。

衆院憲法審査会に参考人として呼ばれた(左から)長谷部恭男・早大教授、小林節・慶大名誉教授、笹田栄司・早大教授=2015年6月4日
 直接的な契機は、2015年の安保法制の制定の際、著名な憲法学者が国会の憲法審査会で「集団的自衛権行使容認は憲法9条に違反する」と明言し、反対運動が一気に盛り上がったことがあると、私は推測する。学者の発言が政府の推進する政策に対する反対の世論に大きな影響を与えたのは実に久しぶりであった。

 安倍政権や自民党、その周辺にいる言論人の大学攻撃は、より構造的なものである。公共領域には、専門性のゆえに自律性と中立性が確保されるべき機関が存在する。政府の内部では、法案の合憲性審査を行う内閣法制局、政府の外側では、日本銀行、報道機関などがある。これらの機関は、党派性の論理で行動する政治権力と対立、緊張関係に立つこともありうる。それゆえに、独立性や中立性が法によって保障されている。専門機関の中立性とは、政治的論争の局外で傍観するという意味ではなく、いかなる党派の政治権力であれ、権力の乱用に対して専門的見地から警告を発するという意味である。大学の場合、憲法23条によって学問の自由が保障されており、自立性の保障はより強固である。これは、戦前の天皇機関説事件のように、学問の弾圧が全体主義支配に直結したことへの反省のゆえである。

デモクラシーと学問の自由

 学者に限らず、自治と自立を認められてきた専門家集団に対して政治家が攻撃を加えるとき、ある種のデモクラシーが武器とされる。この点は、天皇機関説事件の時代との違いである。

 1990年代には、薬害事件や金融行政の腐敗など、官僚制が専門性を隠れ蓑にしてそれぞれの組織の利益を追求していたことが露呈された。原発事故を契機に、官僚組織、業界、学者がムラ社会を形成し、既得権を保持していたことも明らかになった。こうした問題に対して、外部からのチェックや説明責任の履行を求める声が高まることは当然である。

 同時に市民社会と専門家集団の間には緊張関係が必要である。専門家集団には、

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