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ハラスメント・レス社会は可能か?

ハラスメントが溢れる社会を変えるために必要なのは「淘汰」か、「教育」か?

佐藤信 東京都立大学法学部准教授(現代日本政治担当)

セクハラ、パワハラ、マタハラ、モラハラ……

セクハラ問題の辞任した福田淳一財務事務次官=2018年4月18日セクハラ問題の辞任した福田淳一財務事務次官=2018年4月18日

 セクハラ、パワハラ、マタハラ、アカハラ、モラハラ……。さまざまなハラスメント問題が溢(あふ)れる時代である。

 そんな言葉を耳にするたびに、なんと面倒なことをと眉をひそめる人もいれば、一体いつになったら状況が改善するのだろうと嘆息する人もいるだろう。これを借りて仇敵(きゅうてき)を追い落とそうとする者を除けば、ハラスメントは誰にとっても嬉しくない事態・言葉である。

 これまでハラスメントは、多く会社内や家庭内でバラバラに生じて、「塊」として結合する機会が限られていた。セクハラがときに男性に対して行われるように、マタハラの加害者がしばしば女性であるように、またパワハラの被害者が多くが加害者に転化するように、加害者も被害者もそれぞれの事情を抱えて「塊」になりにくく、身の回りでその存在は明らかでも、まとまって大きな声としては聞こえにくかった。

分解していた声が大きくなり……

 ところが、いまでは個人がSNSで(しばしば匿名で)声を挙げ、繋がり合う。そしてまた、スマホやレコーダーの小型化と普及によって、ハラスメントの現場の映像や音声をメディアに持ち込むことが可能になった。

 「このハゲー!」などという豊田真由子・元衆議院議員の秘書への罵声。福田淳一・前財務事務次官のセクハラ(とされる)音声、韓国韓進財閥オーナー一家のパワハラ動画・音声など、挙げればキリがないが、いずれも具体的な映像や音声がなかったら、とてもここまで社会問題化するだけのニュース性も信憑(しんぴょう)性もなかっただろう。

 分解していた声がようやく大きく聞こえるようになってきただけで、これまで存在しなかったわけでも、声がなかったわけでもない。ハラスメント問題について考えるときいつでも前提としておきたいのは、これまで長く個々に苦しみ続けてきた人たちが、沢山(たくさん)いたという事実である。いま求められているのはその軛(くびき)を断つことである。

旧套墨守の組織は淘汰される?

 ハラスメント問題の核心は、相手方――すなわち潜在的な被害者――の心情を理解しようとする姿勢の有無にある。なにが嫌がられているのか、自分は相手にどう映っているのか、そこにどれだけ思いを致すことができるか、である。

 問題は、それができない大人が多過ぎることだ。自分自身、そういう大人をみる機会は本当に多いわけだが、正直言って、ちょっとしたハラスメントは苦笑いして流すことにしている。とりわけ当人たちがハラスメントに配慮している気でいたりするので、相手にするのはエネルギーがいるし、いずれそんな人たちは淘汰されるという予感を持っているからだ 。旧套(きゅうとう)墨守の会社からいかに有能な若者が離れているかをみればご理解いただけると思う(佐藤信「時代は告げずに過ぎ去っていく」『Journalism』no. 333)。

 政治学・行政学者の前田健太郎さんは、個々の組織と社会全体における男女の平等の実現に向けて、二つの考え方があると整理している。第一は既存の組織が従来の男性優位の構造を改めること、第二は既存の組織が変わらないとき、男女を対等に扱う新たな組織が既存の組織を淘汰(とうた)することである。(『東京大学法学部 研究・教育年報23』)。

 これは男女平等だけではなく、古い価値観と新しい価値観との間で、社会がどのように変わるかという問い全体で有効であろう。そして、わたしの感触は後者にあたる。

 淘汰が支配的な戦略になるのなら、古い価値観の人がその価値観を墨守することは、時代から取り残されていくということである。見て見ぬふりをしてやり過ごすことはできる。でも、人生100年時代だ。いまの上司も60代、70代で再就職して年下の上司にこき使われるかもしれない。加害者がまたいつ被害者となってもおかしくはない。だから、ハラスメント・レス社会の実現は、きっとそんな人たちのためにもなる。

古い組織をどう変化させるか

 しかし、前田さんは少子高齢化局面では新たな組織が既存の組織を淘汰する速度が遅くなると論じ、社会の速やかな変化のためには既存の組織をも変えていく必要があるとする。ハラスメントに置き換えれば、それぞれの古い組織をハラスメント・フルからハラスメント・レスへと変えることで、社会全体をハラスメント・レスへと変化させるという構想である。

 このとき、権力関係や利得計算をイジることで行動自体を変化させることはできる。たとえば管理職を女性で埋め尽くせば、その眼前で男性たちがセクハラを働くことはできまい(それで、他のハラスメントがなくなるわけではないが)。また、法的・社会的制裁を強化すれば、ハラスメントが減少することは請け合いである。それは、長い目でみれば、人の内面をも変えていくだろう。

 だが、男女雇用機会均等法施行から30年以上が経った今でも、仕事場でこれだけ実質的な差別やジェンダーバイアスが付きまとっていることを考えても、それは十分な速さとは言えない。古い価値観の人たちに、ムリヤリ行動だけ変えてもらうのではなく、新しい価値観を理解してもらう。いわば「教育」において、工夫が不可欠だ。

 そんなとき、どんな工夫が必要なのだろうか。

「ハラスメント防止宣言」のポスターが貼られた大阪市摂津市=2018年6月「ハラスメント防止宣言」のポスターが貼られた大阪市摂津市=2018年6月

「教育」のための三つの工夫

 第一に、古い価値観の人にはインセンティブを与えることである。

 過去を恥じて変わろうとしている人を、過去の振る舞いや一貫性の欠如で非難するのはやめよう。ただ悪として扱うのではなく、考え、悩み始めてもらおう。いくら反省しても過去のことをいつまでも批判され続けるならば、はじめに反省する意識は生まれにくい。一貫性を問うことをやめよう。柔軟性を評価しよう。

 第二に、なるべく事実を押さえること。

 多くの人にとってハラスメントが恐いのは、「ハラスメント」の境界が曖昧(あいまい)だからだ。そのために事実や言葉をしっかりと押さえていこう。

 まず事実。「被害者の言ったもんがち」というハラスメントのイメージは、社会の変化への抵抗となる。スマホやレコーダーは事実を確定するための武器になる。なるべく事実を確定しよう。

 第三に、言葉を正しく使うことだ。

 なんでもかんでも「ハラスメント」と呼んで、一面ではハラスメントの問題性を矮小化したり、他面では犯罪を矮小化したりするのはやめよう。スメハラ(スメル・ハラスメント)だの、ヌーハラ(ヌードル・ハラスメント)だの、下らないことにまで「ハラスメント」を拡大するのはやめよう。ハラスメントがいかにも些末(さまつ)な問題のように見えてしまう。

 逆に、刑法上の犯罪行為はハラスメントではない。ハラスメントという言葉を使うのはやめよう。この文章では詩織さんの件は一言も触れないが、それはこの一件の核心は犯罪行為の有無だったからで、セクハラ問題ではないからだ。痴漢も強制わいせつ罪になることもあるし、迷惑防止条例違反にあたる。人前でのわいせつな言葉も名誉毀損罪や侮辱罪に当たることもある。

「無垢」な人はいるのか

 と、実はここまでは前段である。

「淘汰」したり、「教育」したりというのは、自分が正しくて相手が間違っているという感覚に基づいている。確かに内在化され、身体化された古い感覚と新しい感覚との差異は、容易に乗り越えられないほど大きい。

 『現代思想』の最新号(2018年7月)の「性暴力=セクハラ」特集で、ライターの武田砂鉄さんは、古い感覚の人たちを「標準的な男性」とか「彼ら」とか呼んで客体化している 。自分と彼らは一緒じゃない。そう腑分けしたい気分はよくわかる。

 他方、同特集のなかで雨宮処凛さんは、自分自身がかつて「女の痛み」に向き合ってこなかったことを真摯(しんし)に告白し、直視しようとする 。その筆致は痛々しいほどに切実で、心を打つ。

 とりわけハラスメント全般を考えたとき、わたしたちは本当に「無垢(むく)」であっただろうか。

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