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ダメ長男を支え続ける原子力ムラ

原電の生命線は東海第二原発。それも再稼働の見通し立たず

石川智也 朝日新聞記者

日本原子力発電の東海第二原発。後方は太平洋と日立市街=2017年12月11日、茨城県東海村上空から撮影
 希望も未来も意味もないのに、生命がなんとか生き永らえ命を次世代に継ごうとする姿は、感動を呼ぶ。しかし、四面楚歌で展望のない大企業がなりふり構わずサバイヴしようとする様は、なんとも寒々しい。ましてや、それが自由競争のない業界の支え合いと国頼みとあっては、同情も共感も呼ぶことはないだろう。

 日本原子力発電(原電)が再稼働を目指す東海第二原発(茨城県東海村)について、原子力規制委員会は今月初め、安全対策が新規制基準を満たすとの審査結果をまとめた。だが、このまますんなり再稼働できるかどうか、先行きは極めて不透明だ。

「東海第二」は唯一の生命線

 原電が所有する原発は4基。うち東海原発と敦賀原発1号機はすでに廃炉作業中で、敦賀2号機は原子炉建屋の直下に活断層が存在する可能性が指摘されており、再稼働は極めて厳しい。唯一の生命線が東海第二なのだが、今年11月末に40年の運転期限が迫る。

 運転延長のためには期限までに工事計画と延長の二つの認可を受けなければならないが、審査にはあと3~4ヶ月かかる。規制委の審査はほかに8原発11基が同時並行で進められている。書類の提出などが滞れば、時間切れで廃炉を迫られる可能性がある。

 再稼働に欠かせない地元同意のハードルも、相当に高い。

 他原発ではこれまで所在市町村と道府県の同意で済ませる「川内方式」で手続きが進められてきたが、東海第二は茨城県と東海村に加え、水戸市など周辺5市の事前了解も必要とする「茨城方式」が導入されている。脱原発を明言した村上達也・前東海村長が在任中に道筋を引いた独自のものだが、反対や慎重姿勢を明らかにしている首長もおり、同意の見通しはまったく立っていない。

 それでも原電が異例ともいえる事前了解の範囲拡大を受け入れたのは、背に腹は代えられない状況に追い込まれているからだ。

 原電は原発専業会社で原発以外に発電手段がなく、福島の原発事故で所有する原発が止まると売る電気がなくなった。発電量ゼロでも、原電は売電先の東京電力ホールディングス、関西電力、中部電力、北陸電力、東北電力から基本料金を受け取り、経営を維持してきた。その額は年1千億円超にのぼる(2012年度は1510億円)。

 2013年には関西、中部、北陸、東北の4電力が、資金繰りに行き詰まった原電のため1040億円の債務保証をした。格付投資情報センター(R&I)は同年、原電の格付けを2段階引き下げて「BB+」とした。融資先としてはリスクが高い「投機的」と一般にみなされる水準だ。

 東海第二の再稼働ができなければ、原電の経営破綻は現実味を帯びる。「原子力発電のパイオニア」を自称してきた原電の経営危機と、それを電力業界が支える構図は、原発の行き詰まりだけでなく、この国の原子力政策が抱え続けてきた不明朗さを象徴している。そのことは、原電という会社の沿革を創立時にまで遡ると、よくわかる。

 多くの人に忘れられている歴史なので、少し長くなるが、おさらいしたい。

日本原子力産業会議の関西大会に出席するために大阪を訪れた原子力委員会委員長の正力松太郎=1956年5月21日

原子力の父・正力松太郎

 原電という会社は、「原子力の父」正力松太郎がつくった。

 「プロ野球の父」「テレビの父」の異名も持つ読売新聞社主、日本テレビ社長の正力が、故郷の富山から衆院選に立候補し初当選したのは1955年2月、69歳のときだった。正力は首相への野心を隠さず、高齢を跳ね返し政界を駆け上がるために、まだ真新しい「原子力」に目をつけた。アイゼンハワー米大統領の「アトムズ・フォー・ピース」演説からまだ1年という時代だ。

 正力は実績作りのために米国の援助で早く商業発電にこぎ着けることをもくろみ、CIAとつながりつつ、前年の第五福竜丸被爆で高まった反米感情や原水爆禁止運動を抑え、「平和利用」を喧伝した。鳩山一郎にはたらきかけ、1年生議員ながら初代原子力委員長として入閣する。

 そして1956年1月の委員会初会合後にいきなり「5年以内に第一号原発を建設する」と打ち上げた。

 「5年以内」は原子炉をまるごと輸入しない限り不可能だった。自主開発論が大勢の学界からは批判が噴出し、湯川秀樹ら他の原子力委員は辞意もほのめかしたが、正力は前のめりにことを進める。

 財界の後押しで一刻も早く発電を実現しようと、みずから音頭を取って業界団体「日本原子力産業会議」を立ち上げさせた。国内第一号の実験炉を運転する日本原子力研究所(原研)の敷地は、科学的見地から一度は神奈川県横須賀市武山への設置が決まったが、巧みに閣議決定で覆し、東海村に決めた。次なる商業炉の建設を考えれば、百万坪以上の公有地があり、海に近い場所を選ぶ必要があったからだ。

米国と決裂、英国と連携

 正力の手柄作りに加担することを警戒し始めた米国と決裂すると、すぐに英国にターゲットを変更。1956年5月、英国原子力公社の産業部長を読売新聞の費用で招き、1面トップで「英国方式とりたい」「アメリカが開発中の原子炉の完成を待っては日本の立遅れはますます激しくなる。正力委員長は構想に自信を深めた」と報じた。紙面の私物化もなんのそのの勢いだった。

 当時、西側で実用発電炉の運転経験を持つ国はなく、英国が運転を始めようとしていたコールダーホール原発も、原爆用のプルトニウム生産を兼ねた半軍用炉だった。しかし正力は同年秋、肝煎りの政府視察団を英国に派遣。湯川らの「時期尚早」との懸念の声を振り切り、既成事実を積み上げて英国炉の導入を決めた。

 視察団が最も強い関心を持っていた耐震問題について英国側はなんら対策を講じていなかったが、その事実は不問にされた。半年前に原研の東海村設置が決まったばかりで、わずか50キロワットの実験炉を組み立てようと準備を進めていた頃だ。そこへ一足飛びに15万キロワットの大型発電炉の輸入が決まった。(日本で初めて原子の火が灯ったのは翌年8月。原研の実験炉JRR-1の直径40センチの炉心で得られた出力は、60ミリワットだった)。

第1次岸改造内閣の閣僚たち。最前列左端が河野一郎。最後列左から三番目が正力松太郎=1957年7月10日、首相官邸

「正力―河野論争」に勝利して

 意気軒昂の正力だったが、この国内初の原発=東海原発をどこが運営するのか、という難題がすぐに持ち上がる。

 まず手を挙げたのは、電源開発(電発)だった。戦中に電力のすべてを握った国策会社「日本発送電」が解体され9電力会社に再編されるなかで、電力卸元として生まれた政府出資の特殊会社だ。その出自と地位を前面に「国家投資が可能な我々が担うのが妥当だ」と主張した。これに対し、地域独占企業となって電発とは競合関係にあった電力9社は、共同で株式会社を設立する、と表明する。

 国主体か民間主体か――。両者の対立は日本発送電解体の延長にある縄張り争いの側面もあったため、世の注目を集めた。財界をバックに早期の発電導入を推進してきた正力にとって、答えは自明だった。1957年7月、正力委員長率いる原子力委員会は「数百億円の国庫支出は不可能で、民間資金を活用すべきだ」との方針を発表した。

 ところが、この問題はその後一カ月間にわたって大いに紛糾する。首相の座をうかがう実力者で派閥の領袖でもある河野一郎が「民間構想」に真っ向から異を唱えたからだ。

 「非効率な半官営組織ではなく民間資本でどんどん開発すべきだ」という正力に対し、河野は「投資ロスや万が一の失敗による国民負担を避けるためには政府が十分に監督し、人事権も握る特殊会社をつくるべきだ」と強く反論。「英国炉は時期尚早。経済性や安全性、海外の動向を見つつ、1年は導入を遅らせるべきだ」とも唱えた。世に言う「正力―河野論争」だ。

 次期総理候補とメディア王との対立を、新聞は一夏にわたって大きく取り上げた。

 中曽根康弘らが連絡役としてふたりの間を走り、ようやく妥協が成ったのは8月末だ。電発が20%、民間が80%を出資し、新会社を設立する。民間出資の半分は電力9社、もう半分は原子力メーカーや一般公募とする――。形式的には折衷だが、正力の民営論の勝利だった。当時の舞台裏を取材した毎日新聞の河合武やジャーナリスト田原総一朗は、河野への電力会社側からの献金で決着が図られたと、後に記している。

 「国策民営事業」としての日本の原発のレールは、こうして敷かれた。

「花形企業」のほころび

 日本の原発の先駆けを担う新会社「日本原子力発電株式会社」は、早くも2カ月後の1957年11月1日に設立される。創立総会ではすべての議案が原案どおり可決され、社長には日本原子力研究所理事長の安川第五郎、副社長には関電常務の一本松珠璣が就いた。

 株式は争奪の的となり、一本松すら「とにかくバスに乗り遅れるなといった空気」とあきれるほどだった。新エネルギー原子力の未来は輝かしく、出資元の電力会社の若手の多くが原電への出向を希望したという。まぎれもなく花形企業だった。

 正力の政界でのキャリアは、しかし、ここが臨界点だった。派閥のボスと激しい論争をした代償は高くつき、政治的立場を弱めた正力は、その後二度と入閣することはなかった。

 「国策民営」の矛盾も時をおかず露呈した。

 発電炉受け入れ交渉の途中で、英国は突然、事故が起きても一切の責任は負わないという「免責条項」を持ち出してきた。慌てて損害賠償制度の研究が始まり、1961年に原子力損害賠償法が成立する。事業者には保険契約と限度額内の賠償が求められたが、それを超える分は国が援助できるとした。過酷事故が起きれば莫大になる民間事業の賠償をなぜ国が負わねばならぬのか、大蔵省は最後まで抵抗した。

 官と民との責任の曖昧さはその後も幾度となく持ち上がり、開発予算要求が出される度に、財務当局は「民間の責任」を持ち出して難色を示した。

日本原子力発電の東海第二原発=2018年7月4日、茨城県東海村上空から撮影

「国策民営」の矛盾

 核燃料は当初は国が所有管理したが、効率性から後に民間主体に変わる。しかし1999年に東海村のウラン燃料加工会社「ジェー・シー・オー」(JCO)で国内初の臨界事故が起きると、逆に燃料の「公的」管理のあり方が問われた。

 「国策民営」の矛盾が一気に噴き出したのは、いうまでもなく福島の原発事故だ。

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