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ダメ長男を支え続ける原子力ムラ

原電の生命線は東海第二原発。それも再稼働の見通し立たず

石川智也 朝日新聞記者

 原電という会社は、「原子力の父」正力松太郎がつくった。

 「プロ野球の父」「テレビの父」の異名も持つ読売新聞社主、日本テレビ社長の正力が、故郷の富山から衆院選に立候補し初当選したのは1955年2月、69歳のときだった。正力は首相への野心を隠さず、高齢を跳ね返し政界を駆け上がるために、まだ真新しい「原子力」に目をつけた。アイゼンハワー米大統領の「アトムズ・フォー・ピース」演説からまだ1年という時代だ。

 正力は実績作りのために米国の援助で早く商業発電にこぎ着けることをもくろみ、CIAとつながりつつ、前年の第五福竜丸被爆で高まった反米感情や原水爆禁止運動を抑え、「平和利用」を喧伝した。鳩山一郎にはたらきかけ、1年生議員ながら初代原子力委員長として入閣する。

 そして1956年1月の委員会初会合後にいきなり「5年以内に第一号原発を建設する」と打ち上げた。

 「5年以内」は原子炉をまるごと輸入しない限り不可能だった。自主開発論が大勢の学界からは批判が噴出し、湯川秀樹ら他の原子力委員は辞意もほのめかしたが、正力は前のめりにことを進める。

 財界の後押しで一刻も早く発電を実現しようと、みずから音頭を取って業界団体「日本原子力産業会議」を立ち上げさせた。国内第一号の実験炉を運転する日本原子力研究所(原研)の敷地は、科学的見地から一度は神奈川県横須賀市武山への設置が決まったが、巧みに閣議決定で覆し、東海村に決めた。次なる商業炉の建設を考えれば、百万坪以上の公有地があり、海に近い場所を選ぶ必要があったからだ。

米国と決裂、英国と連携

 正力の手柄作りに加担することを警戒し始めた米国と決裂すると、すぐに英国にターゲットを変更。1956年5月、英国原子力公社の産業部長を読売新聞の費用で招き、1面トップで「英国方式とりたい」「アメリカが開発中の原子炉の完成を待っては日本の立遅れはますます激しくなる。正力委員長は構想に自信を深めた」と報じた。紙面の私物化もなんのそのの勢いだった。

 当時、西側で実用発電炉の運転経験を持つ国はなく、英国が運転を始めようとしていたコールダーホール原発も、原爆用のプルトニウム生産を兼ねた半軍用炉だった。しかし正力は同年秋、肝煎りの政府視察団を英国に派遣。湯川らの「時期尚早」との懸念の声を振り切り、既成事実を積み上げて英国炉の導入を決めた。

 視察団が最も強い関心を持っていた耐震問題について英国側はなんら対策を講じていなかったが、その事実は不問にされた。半年前に原研の東海村設置が決まったばかりで、わずか50キロワットの実験炉を組み立てようと準備を進めていた頃だ。そこへ一足飛びに15万キロワットの大型発電炉の輸入が決まった。(日本で初めて原子の火が灯ったのは翌年8月。原研の実験炉JRR-1の直径40センチの炉心で得られた出力は、60ミリワットだった)。

拡大第1次岸改造内閣の閣僚たち。最前列左端が河野一郎。最後列左から三番目が正力松太郎=1957年7月10日、首相官邸

「正力―河野論争」に勝利して

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筆者

石川智也

石川智也(いしかわ・ともや) 朝日新聞記者

1998年、朝日新聞社入社。社会部でメディアや教育、原発など担当した後、特別報道部を経て2021年4月からオピニオン編集部記者、論座編集部員。慶応義塾大学SFC研究所上席所員を経て明治大学ソーシャル・コミュニケーション研究所客員研究員。著書に『さよなら朝日』(柏書房)、共著に『それでも日本人は原発を選んだ』(朝日新聞出版)、『住民投票の総て』(「国民投票/住民投票」情報室)等。ツイッターは@Ishikawa_Tomoya

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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