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歴史から読み解く自民党総裁選の意義

安倍首相の三選が確実視される今秋の総裁選。自民党はそれでいいのか?

鈴村裕輔 名城大学外国語学部准教授

無投票当選となった2015年自民党総裁選の出陣式でガンバロー三唱する安倍晋三首相(中央)=2015年9月8日無投票当選となった2015年自民党総裁選の出陣式でガンバロー三唱する安倍晋三首相(中央)=2015年9月8日

「安倍三選」確実は望ましいのか?

 今年9月に行われる自民党の総裁選挙では、現職の安倍晋三首相の三選が確実視されている。

 もちろん、いわゆる森友・加計学園問題における安倍首相の印象は必ずしも良くないし、石破茂元幹事長や野田聖子総務大臣のような対立候補もいる。しかし、有力な対抗馬であった岸田文雄政調会長が自力で総裁の座を手にするのではなく、安倍首相からの禅譲を期待して総裁選挙への出馬を見送ったことで、党内の支持の幅広さと2012年に総裁に復帰して以降、5回の国政選挙で勝利を収めてきた実績からも、石破氏や野田氏では安倍首相に拮抗することが難しいのは明らかだ。

 それだけに、人々の関心は総裁選挙の勝者ではなく、国会議員票にくわえて地方の党員票をどれだけ上積み出来るかという、安倍首相の「勝ち方」に集まることになる。

 それでいいのか?

 安倍氏が無投票で当選した2015年9月に続き、今回の総裁選挙が“信任投票”となるすれば、自民党の今後にとって必ずしも望ましいものではないであろう。どうしてか?

 ここでは自民党の総裁選挙で起きた代表的な出来事と自民党の歩みを中心として、総裁選挙での真摯(しんし)で活発な議論がなぜ、重要なのかを考えてみよう。

熾烈で過酷だった自民党総裁選挙

 1955年の暮れに発足した自民党で初めて総裁選が行われたのは1956年4月5日。以来、総裁選では毎回、様々な物語を生み出してきた。

 たとえば、池田勇人、佐藤栄作、藤山愛一郎、灘尾弘吉の4氏が争い、「ニッカ」(2つの派閥からカネをもらう)、「サントリー」(3つの派閥からカネをもらう)、「オールドパー」(あらゆる派閥からカネをもらって白紙投票する)という隠語と金銭が飛び交った1964年の総裁選。

 また、予備選挙制度が導入され、大平正芳幹事長に敗れた本命の福田赳夫首相が「天の声にも変な声もたまにはある」と述懐した1978年の総裁選。あるいは、当初は劣勢であったにもかかわらず、「自民党をぶっ壊す」という強い言葉によって世論の支持を獲得した小泉純一郎元厚相が、最大派閥が擁した橋本龍太郎元首相に圧勝した2001年の総裁選。いずれも今でも語り継がれる鮮烈な総裁選である。

 なかでも、自民党史に残る波乱の結末となったのは、自民党初代総裁の鳩山一郎首相が後継を指名しなかったために公選となった1956年12月の総裁選であろう。本命だった岸信介幹事長が1回目の投票で過半数の票を得られず、石井光次郎元運輸相と2位・3位連合を組んだ石橋湛山元通産相が、258票対251票の「7票差」で岸を破り、総裁の座を射止めた。

1956年の自民党総裁選で新総裁になった石橋湛山氏(中央)と握手する、破れた岸信介幹事長(その右)ら1956年の自民党総裁選で新総裁になった石橋湛山氏(中央)と握手する、破れた岸信介幹事長(その右)ら

 候補者間の争いが熾烈(しれつ)であればあるほど、総裁選後の内閣や党の人事、さらにその後の政権運営に様々な禍根を残すことになる。

 石橋内閣の発足時には、岸氏が副総理と主要閣僚での処遇を求める一方、石橋氏と連携した石井氏が入閣の意向を明確に示さなかったたことで、岸氏が外相として入閣している。また、1982年に田中派の全面的な支援を受けて当選した中曽根康弘氏は、自派の議員をあてるのが一般的な官房長官に、田中派の後藤田正晴氏を任命するなど田中角栄氏の影響力を受けて組閣し、「田中曽根内閣」や「直角内閣」と称された。

総裁選が広げた自民党の幅

  その一方で、総裁選挙の持つ効用も小さくない。

 自民党史にとどまらず、日本の憲政史に残る政争になった「角福戦争」は、佐藤栄作首相の後継者の座を巡る田中角栄氏と福田赳夫氏の権力闘争であった。

 両者の争いは、交通網の整備と拡充を通して人口と産業の地方分散を推進し、過疎と過密を同時に解消させるという田中氏の積極財政と、1965年に蔵相として財政法制定後に初めて国債の発行に踏み切って積極財政を推進しつつ、1968年に蔵相に復帰した際には緊縮財政に転じて予算の国債依存度の抑制に成功した福田氏の均衡財政の対立でもあった。

 1960年の日米安保条約改定の際に賛否を巡って国論が二分されると、岸内閣を継いだ池田勇人首相が「所得倍増論」を唱えて高度経済成長の道を切り拓いたことも見逃せない。岸氏から池田氏への政権の移行は、単に政治から経済へと国民の関心を変えさせただけでなく、経済成長によって「一億総中流」と呼ばれる所得格差の小さな社会を実現することで、社会や経済の変革を唱える革新政党の勢力拡大を抑え、自民党の政権を維持させた格好の事例と言えよう。

 積極財政と均衡財政の対立や政治から経済への関心の移行は、いずれも総裁選を通して活発に議論されたことで明らかになった争点である。そして、こうした論争こそが自民党の幅を広げるとともに、政策の質を高める役割を果たしてきた。

1972年自民党総裁選。新総裁選出のため臨時党大会後のレセプションで、争った福田赳夫氏(左)から祝福を受ける田中角栄自民党新総裁 =1972年7月5日1972年自民党総裁選。新総裁選出のため臨時党大会後のレセプションで、争った福田赳夫氏(左)から祝福を受ける田中角栄自民党新総裁 =1972年7月5日

多様な議員が所説を唱え政策が対立

 では、自民党内で政策の対立はなぜ起きたのだろうか。

 もちろん、『均衡財政』という著書を上梓(じょうし)するほど徹底した均衡財政主義者であった池田氏や、衆議院議員に初当選して以来「自主憲法制定」とともに「首相公選制」を唱えていた中曽根康弘氏のように、自らの確固とした理念や信条に基づいて行動する政治家同士が意見を交わせば、政策の対立が生じるのは当然だろう。だが、それにくわえて自民党という政党そのものの持つ多様性も、大きな意味を持っていたと言える。

 1955年に自由党と日本民主党とが合併して誕生した自民党には、岸氏のような元A級戦犯容疑者、太平洋戦争中は「作戦の神様」と呼ばれた辻政信氏などのいわゆる右派的な人物から、親中派の松村謙三氏、親ソ派の河野一郎氏まで参加。また、佐藤栄作氏や前尾繁三郎氏ら高級官僚から政界に転じた「官僚派」と、院外団出身の大野睦伴氏や「自分が一声かければ沖仲仕の百人や二百人はすぐに集められる」と豪語した河野一郎氏らの「党人派」が混在するなど、実に多士済々であった。

 このように様々な背景を持った議員たちで構成された自民党は、種々の支持者の連合体でもあった。そして支持者の多様さが、経済成長や対米関係を重視する保守派から社会福祉と対米自立の促進を目指す進歩派までを含む、国民の広範な層から支持される国民政党としての自民党を形成したのであり、それぞれの議員が自らの立場から所説を唱えたことで、政策の対立や相違が起きたのである。

社会党はなぜ、政権を獲得できなかったか

 実は、分裂していた西欧型の社会民主主義を目指した右派と親ソ・親中の左派が1955年、自民党に先駆けて再統一してできた社会党も、内部には多様な意見を抱えていた。にもかかわらず、社会党は自民党の発足後、自力で政権を獲得することができなかった。それは、なぜだろうか。

 しばしば耳にするのが、「野党第一党の方が政権を獲得するより都合がよかった」、「いつまでもマルクス主義の尾を引きずり、世の中の変化に対応できなかった」といった指摘だ。確かに、こうした見方は、社会党の行動を振り返ると、相当な説得力を持っていることが分かる。

 戦前は社会主義を擁護し、社会党政権の片山哲内閣が1947年に発足した際には、日本における二大政党制の確立を期待していた石橋湛山氏は後日、社会党が国民の支持を得られない大きな理由としてイデオロギーを挙げている(『湛山座談』岩波書店 1994年)。そこで石橋氏は、「社会党とわれわれ自由民主党とで二大政党を組織できるものと速断した。ところが事実はそうはいかなかった」と述べ、戦後の日本に自民党と社会党による二大政党制が確立できなかった理由を、以下のように指摘する。

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