高瀨毅(たかせ・つよし) ノンフィクション作家・ジャーナリスト
1955年。長崎市生まれ。明治大卒。ニッポン放送記者、ディレクターを経て独立。『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』『ブラボー 隠されたビキニ水爆実験の真実』など歴史や核問題などの著作のほか、AERAの「現代の肖像」で人物ドキュメントを20年以上執筆。ラジオ、テレビのコメンテーターなどとしても活躍。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
長崎は京都との関係の中で利用された? 不思議な小空襲に秘められた歴史の謎
長崎に2発目の原爆が投下される前に行われたアメリカ軍の小空襲を知っているだろうか。
当時、全国の都市はアメリカ軍の空襲にさらされていた。これもその一つととらえるならば、この話はそこで終わりである。
しかし、原爆との関連で見直した時、原爆投下を前にした「小空襲」は別の意味と相貌(そうぼう)をもって浮かび上がってくるのだ。というのは、この「小空襲」が長崎への原爆投下が決定した後の通常爆撃だったからだ。仮にこれを「長崎小空襲」と名付けておこう。
「小空襲」があったのは、1945年(昭和20年)7月29日、31日、8月1日の3回である。長崎に原爆が投下される約10日から1週間あまり前にかけて、続けざまに長崎の町が狙われていたのだ。
いずれも通常爆弾による爆撃。7月29日はA26が32機。31日はB24が29機。8月1日は同機24機が飛来した。3回の爆撃による死者の合計は202名。重軽傷者291名。行方不明者43名。住宅の全半壊545戸。爆撃は波状攻撃で、住宅だけでなく、三菱造船所、三菱製鋼所、長崎医科大学など市の重要な施設、港外の船舶に対しても行われている。
まず、疑問を感じるのは、原爆投下「直前」とも言っていい時期の空襲であることだ。
原爆投下の狙いの一つは、核分裂の力を利用した巨大爆弾の威力を試すことだった。とすれば、破壊する目標の都市は無傷であることが望ましい。完全、あるいはほぼ完全な原型を残している都市であれば、破壊力を特定しやすいからである。そう考えると、長崎が原爆10日~1週間前に通常爆撃を受けるのはスジが通らない。
実際、原爆投下の目標都市には、原爆が完成する前から、通常爆弾による爆撃を禁止する命令が、2度にわたって出されていたのだ。1度目は6月はじめ。2度目は6月30日である。
前者は陸軍航空軍司令官アーノルド元帥から20航空軍に。後者は統合参謀本部からマッカーサー将軍、ニミッツ提督、アーノルド元帥に対して。命令を出すよう要請したのは、ブルドーザーのような馬力で、米国の原爆開発製造計画「マンハッタン計画」を牽引していたレズリー・グロ―ブズ少将だった。
ところが、この禁止命令が出されていたのは広島、小倉、新潟の3都市で、長崎には出されていなかったのだ。
なぜなのか?
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