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原爆投下の前になぜ、長崎は空襲されたのか?

長崎は京都との関係の中で利用された? 不思議な小空襲に秘められた歴史の謎

高瀨毅 ノンフィクション作家・ジャーナリスト

長崎原爆の日の平和祈念式典。田上富久・長崎市長の平和宣言のあと、ハトが放たれた=2017年8月9日長崎原爆の日の平和祈念式典。田上富久・長崎市長の平和宣言のあと、ハトが放たれた=2017年8月9日

他の空襲とは別の相貌

 長崎に2発目の原爆が投下される前に行われたアメリカ軍の小空襲を知っているだろうか。

 当時、全国の都市はアメリカ軍の空襲にさらされていた。これもその一つととらえるならば、この話はそこで終わりである。

 しかし、原爆との関連で見直した時、原爆投下を前にした「小空襲」は別の意味と相貌(そうぼう)をもって浮かび上がってくるのだ。というのは、この「小空襲」が長崎への原爆投下が決定した後の通常爆撃だったからだ。仮にこれを「長崎小空襲」と名付けておこう。

原爆投下「直前」の空襲に疑問

極東航空軍による長崎空襲(『米軍の写真偵察と日本空襲』工藤洋三)極東航空軍による長崎空襲(『米軍の写真偵察と日本空襲』工藤洋三)

 「小空襲」があったのは、1945年(昭和20年)7月29日、31日、8月1日の3回である。長崎に原爆が投下される約10日から1週間あまり前にかけて、続けざまに長崎の町が狙われていたのだ。

 いずれも通常爆弾による爆撃。7月29日はA26が32機。31日はB24が29機。8月1日は同機24機が飛来した。3回の爆撃による死者の合計は202名。重軽傷者291名。行方不明者43名。住宅の全半壊545戸。爆撃は波状攻撃で、住宅だけでなく、三菱造船所、三菱製鋼所、長崎医科大学など市の重要な施設、港外の船舶に対しても行われている。

 まず、疑問を感じるのは、原爆投下「直前」とも言っていい時期の空襲であることだ。

 原爆投下の狙いの一つは、核分裂の力を利用した巨大爆弾の威力を試すことだった。とすれば、破壊する目標の都市は無傷であることが望ましい。完全、あるいはほぼ完全な原型を残している都市であれば、破壊力を特定しやすいからである。そう考えると、長崎が原爆10日~1週間前に通常爆撃を受けるのはスジが通らない。

目標都市の爆撃を禁止する命令も

 実際、原爆投下の目標都市には、原爆が完成する前から、通常爆弾による爆撃を禁止する命令が、2度にわたって出されていたのだ。1度目は6月はじめ。2度目は6月30日である。

 前者は陸軍航空軍司令官アーノルド元帥から20航空軍に。後者は統合参謀本部からマッカーサー将軍、ニミッツ提督、アーノルド元帥に対して。命令を出すよう要請したのは、ブルドーザーのような馬力で、米国の原爆開発製造計画「マンハッタン計画」を牽引していたレズリー・グロ―ブズ少将だった。

 ところが、この禁止命令が出されていたのは広島、小倉、新潟の3都市で、長崎には出されていなかったのだ。

 なぜなのか?

奇妙な点だらけの「長崎小空襲」

極東航空軍のB-24による長崎空襲(『米軍の写真偵察と日本空襲』工藤洋三)極東航空軍のB-24による長崎空襲(『米軍の写真偵察と日本空襲』工藤洋三)

 考えられることがある。長崎が投下目標都市として最終的に決定したのが7月25日で、投下まであまり日がない時期だったことである。これは長崎小空襲の1回目の4日前だ。通常爆撃の禁止命令が現場に通達されるには、時間がなかったと言えなくもない。しかし、まったく爆撃禁止命令が出されないまま、3度にわたって長崎を爆撃しているのは奇妙なことだ。

 基地や軍需工場など、都市の一般の住民を対象にした「戦略爆撃」が本格化するのは、1945年の東京大空襲以後だ。また、中小都市を対象として重点的に爆撃が始まったのは6月17日から。それは「終戦の日」の8月15日まで続き、57都市が、主に焼夷弾で焼き払われている。

 当時の長崎の人口は九州では福岡に次ぐ規模。戦艦武蔵を建造した三菱造船所をはじめ、真珠湾攻撃に使われた高性能魚雷を製造した三菱兵器製作所や三菱製鋼所など、軍需工場などが集積する軍需工業都市でもあった。長崎は44年11月と45年4月の2回、爆撃を受けたものの、都市を焼き払うような空襲はなかった。

 つまり、原爆投下目標都市に決まってもいないのに、まるで温存されるように大規模爆撃は行われず、いったん投下目標都市と決定した後に、今度は原爆投下の効果を損なうかのような爆撃が突如、三回に渡って行われたのである。

非合理とも思える米軍の作戦

 長崎に対する非合理とも思える米軍の作戦は、どう理解すればいいのか。なぜ、このようなことが長崎に起きたのか。

 元NBC長崎放送記者で、被爆者千人のインタビュー音声と、三百数十人の同映像を記録した故伊藤明彦氏(2009年死去・享年72歳)は、その膨大な取材を通して、広島、長崎の被爆の実相と埋もれている事実をいくつかの著作に残している。そのうちの一つ『夏のことば』(私家版)の中で、長崎小空襲についても触れている。同書の中で伊藤氏は「理由は分からない」と述べている。

 このレポートは、氏の著作を参考にさせてもらったが、「長崎小空襲」について深く分析したのは、寡聞にして伊藤氏以外、私は知らない。

長崎が選ばれたワケは「分からない」

アーノルド陸軍航空司令官(『原爆投下部隊』工藤洋三・金子力)アーノルド陸軍航空司令官(『原爆投下部隊』工藤洋三・金子力)
レスリー・グローブズ将軍(『原爆投下部隊』工藤洋三・金子力)レスリー・グローブズ将軍(『原爆投下部隊』工藤洋三・金子力)

 その伊藤氏がもう一つ、「理由は分からない」と記述しているのが、なぜ長崎が原爆投下目標都市に選ばれたのかということだ。

 前述したように、長崎が目標に決定したのは、投下わずか2週間前の7月25日。数回の目標選定会議を経て最終段階まで残っていたのは、京都、広島、小倉、新潟の4都市だったが、京都はスチムソン陸軍長官の強い反対で消え、最後の最後で長崎が浮上した。

 その過程の詳細は紙数が足りないので省略するが、簡単にいえば、2発目の第1目標・小倉に目視(原爆投下は目視と命令されていた)で落とせなかった場合、第2目標を新潟にすると、基地のあるマリアナ諸島のテニアン島に帰るのに負担がかかる。方角が逆で、距離的にも遠くなるからで、おそらくそれが考慮されたのではないかと推測されている。長崎ならば小倉からのテニアン島への復路のコース上にある。

 現在までに公になっている米軍関係資料によれば、京都が候補から削除された時、スチムソンから相談を受けたアーノルド元帥が、代替案として長崎を推したことがわかっている。しかし、マンハッタン計画の全貌(ぜんぼう)から原爆の効果の調査まで網羅した『資料マンハッタン計画』でも、「どうして長崎が選ばれたか、理由は明らかでない」としている。

くすぶり続けた?京都への原爆投下

原爆投下の指揮系統図(『原爆投下部隊』工藤洋三・金子力)原爆投下の指揮系統図(『原爆投下部隊』工藤洋三・金子力)

 ちなみに京都に関しては、

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