沖縄県知事としての翁長雄志氏を歴史的にいかに評価するか
2018年08月14日
「これまで沖縄の人たちは、言いたいことがあっても言葉を飲み込んできました。しかし、私だけは政治的に死んでも肉体的に滅んでも、沖縄を代表して言いたいことを言おうと思いました」(翁長雄志『戦う民意』KADOKAWA、2015年、230頁)
2018年8月8日、沖縄県知事だった翁長雄志氏は、膵臓がんのため死去した。まさに自著での言葉のとおり、翁長氏は知事に就任してから亡くなるまで、その公約である普天間基地の辺野古移設反対を訴え続けるとともに、沖縄に過重な基地負担を負わせ続ける日米安保と日本の「国のかたち」に異議を唱え続けてきた。
本稿では、歴史的観点から翁長氏の県知事としての意義と限界について考察してみたい。
2014年11月、翁長県政が誕生したこと自体が、沖縄の歴史の中で重要な意義があった。沖縄では、長年にわたって日米安保や基地を容認しつつ経済振興を重視する保守勢力と基地に反対し人権や平和を重視する革新勢力が対立してきた。しかし、当時那覇市長でもともと自民党政治家だった翁長氏は、沖縄県内で保守と革新の対立を乗り越えて辺野古移設に反対し、辺野古移設を進めようとする日本政府と対峙するという「オール沖縄」を旗印に、多くの県民の支持を得て当選したのである。
当時、自民党からの政権交代を実現した民主党政権が辺野古移設計画の見直しを模索したが挫折し、沖縄では日本本土の政治への失望感が高まっていた。しかも政権に返り咲いた自民党の安倍政権の強硬姿勢によって、二期目の選挙では普天間基地の県外移設を公約に掲げていた仲井眞弘多知事が、移設工事のための埋め立てを承認し、県民から「裏切り」だとして怒りが高まっていた。こうした中で「イデオロギーよりアイデンティー」をスローガンに誕生した翁長県政は、沖縄には日本本土と異なる独自の政治的土壌があることや、米軍基地の過重負担に沖縄の多くの人々が不満を持っていることを改めて示したのである。
翁長氏の最大の政治的武器は、その言葉であった。翁長氏は、知事就任以来、辺野古問題や基地問題を沖縄の歴史に位置づけながら積極的に発信していった。沖縄県民に対しては、沖縄の独自の歴史とアイデンティティーに誇りを持つよう呼びかけた。翁長氏は演説でもしばしば沖縄固有の「うちなーぐち」を使用した。また翁長氏は、沖縄の苦難の歴史を踏まえた上で現在の課題に取り組むよう日本政府や米国政府に強い言葉で訴え続けた。特にその言葉の力が発揮されたのが、菅義偉官房長官との一連の会談である。翁長氏は、米軍による沖縄統治時代に「自治は神話である」と発言して強権政治を行ったキャラウェイ高等弁務官の話を持ち出して辺野古移設を「粛々」と進めるという安倍政権の姿勢を批判した。2015年の協議では「沖縄県民には「魂の飢餓感」がある」と説明した。
ときに強い言葉を使ったとはいえ、翁長氏の主張は、決して過激・極端ではなく、むしろ穏健保守、中道というべきものだった。もともと自民党の政治家であった翁長氏は、日米安保条約を支持すると公言してきた。翁長氏が強く非難したのは、在日米軍専用施設の約7割が沖縄に集中しているという不公平さであった。
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