山本章子(やまもと・あきこ) 琉球大学准教授
1979年北海道生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。博士(社会学)。2020年4月から現職。著書に『米国と日米安保条約改定ー沖縄・基地・同盟』(吉田書店、2017年)、『米国アウトサイダー大統領ー世界を揺さぶる「異端」の政治家たち』(朝日選書、2017年)、『日米地位協定ー在日米軍と「同盟」の70年』(中公新書、2019年)など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
翁長氏はいかにして「オール沖縄」知事となったか
*この記事は筆者に日本語と英語の2カ国語で執筆していただきました。英語版でもご覧ください。
台風が迫る2018年8月11日、沖縄那覇市の奥武山公園で、「土砂投入を許さない!ジュゴン・サンゴを守り、辺野古新基地建設断念を求める8・11県民大会」(辺野古に新基地を造らせないオール沖縄会議主催)が行われた。
朝は青空が広がっていたが、午前11時に始まった大会の冒頭、8日に急逝した翁長雄志知事への黙とうを参加者全員で捧げた直後から、激しい雨が降り出した。公園周辺の道路には何台もの街宣車が終結し、大音量で軍歌を流しながら参加者に罵詈雑言を浴びせていた。だが、雨の中増え続ける参加者は7万人に達し、会場に入りきらない人間を収容するために、幼い子供から高齢者までが傘をたたんで身を寄せ合い、一時間以上もずぶ濡れで立つ姿があちこちで見られた。
この県民大会で目を引いたのが、参加者の年齢層の幅広さだ。沖縄の反基地運動の参加者は、1945~72年の米軍の占領に抵抗した「復帰前世代」が中心で、年々高齢化している。だが、この日の県民大会では、さまざまな年代の家族や友人たちが連れ立って参加していた。
幅広い年代の県民の足を県民大会に向かわせたのは、翁長知事の急逝にほかならない。参加者は黒い服を着る、喪章や黒いリボンをつけるなど、思い思いに翁長知事への追悼の意を示していた。翁長知事の息子の翁長雄治那覇市議や、城間幹子那覇市長、謝花喜一郎副知事などの登壇者は口々に故人の思い出を語り、翁長知事の遺志を引き継ぐことを誓った。県民大会は実質的に、翁長知事の追悼集会となったのだ。
2014年11月の沖縄知事選で「辺野古新基地建設阻止」を訴え、現職の仲井眞弘多氏に約10万票の大差をつけて当選した翁長知事の死に、数多くの県民が涙している。しかしながら、翁長氏が県民の間で強い輝きを放つ存在となったのは、意外と最近のことだ。
きっかけは、2012年10月に実施された、米海兵隊普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)へのMV-22輸送機、通称オスプレイの配備だった。当時、那覇市長だった翁長氏は、民主党政権を批判し、県民の先頭に立って、開発段階で事故が多発したオスプレイの配備撤回を訴えた。自民党・安倍晋三政権が復活してまもない2013年1月には、翁長氏は生粋の自民党政治家であるにもかかわらず、沖縄県の41市町村長(翁長氏含む)、41市町村議会議長、超党派の県議ら約140人を集めて上京、日比谷公園から銀座までオスプレイ配備撤回のデモ行進を行った。こうして翁長氏は、県民のために「生活の闘い」をする政治家として衆目に周知されていく。