鹿児島の南380kmに浮かぶ小さな島。少年はそこから世界を夢見た
2018年08月25日
子供のころ、何度も出ていきたいと思った島に、ことしの夏も「ただいま」と言った。
「はげ。だーちゃ、ゆくむどうてきたね。かんしんじゃや(良く帰ってきたね。偉いね)」
祖母の方言が迎えてくれる。ことし84歳。僕の帰る日を楽しみにしていたそうだ。
透き通るエメラルドグリーンから遠くに目をやると、天から注がれる光を反射し、キラキラと輝く真っ青な世界が広がる。夕暮れになると、揺らすと落ちてしまう線香花火のような太陽から放たれる優しい色に包まれ、海原は真っ赤に染まる。
そして月が昇りはじめると、月光が海に差し込み、細長い光の道が現れる。見上げると手が届きそうな満点の星空。特になにをするわけでもなくとも、つい足を運んでしまいたくなる場所が、この島にはたくさんある。
日本に人が暮らす島は400あまりあるといわれる。そのひとつである喜界島に、僕は1995年に生まれ、高校卒業まで18年間育った。
家に着いた。東京での学生生活は夢ではないかと一瞬錯覚する。まして遥か彼方のウガンダで過ごした日々は夢のまた夢に思える。
ほどなく、台風19号が襲ってきた。直撃だ。島のほぼ全域が停電し、真っ暗だ。船は欠航し、島に荷物が届かない。店からは食料品や化粧品が消える。サトウキビ畑はどうなるだろう。
風雨が地面をたたく音だけが響く。この島を離れた日の思いが心に蘇ってくる。
長寿の島として知られ、世界最高齢とみられた田島ナビさん(今年4月に117歳で永眠された)も喜界島の人だ。
沖縄本島と鹿児島の中間に位置し、琉球文化圏の最北端の島である。鹿児島(薩摩)と沖縄(琉球)の双方の影響を受け、独自の文化を築いてきた。まだまだ謎の多い島でもある。
沖縄本島や他の離島からのアクセスはほぼない。鹿児島か奄美大島を経由しなければたどり着けない。
鹿児島からフェリーで12時間。飛行機は1日2便。36人乗りと48人乗りの超小型プロペラ機だ。私が生まれた頃まで乗客は搭乗前に体重を聞かれていたという。
奄美大島からは国内で二番目に短い空路。約15分で到着する。小さい窓から見える碧い海と南国の草花に見とれていると、あっという間だ。
サトウキビから作る黒砂糖や黒糖焼酎、日本一の生産量を誇る白ごまに、島の暮らしは支えられている。
僕も週末は早朝からサトウキビ畑にいくのが当たり前だった。午前10時ごろに作業を終え、祖父と大きなトラクターに乗って風を感じながら帰る爽快感がたまらなく好きだった。
砂糖の製造時期になると、祖父母の家の庭に隣接された製糖工場に家族・親戚が集結する。さとうきびの茎から中のジュースを搾り、不純物を取り除きながら煮つめ、攪拌して固める。
黒砂糖の作り方はいたって単純だが、アメ化しないように結晶化させるには熟練の技、勘が必要である。その日の天候やサトウキビの状態を見極めなければならない。
祖父は60年以上サトウキビを作り続けてきた。熟練の感がそこに詰まっている。
島は観光地化されていない。400年生きてきた世界最大級のハマサンゴを見ることができる。
好奇心旺盛(飽き性ともいえる)は、僕の長所でもあり短所でもある。誰かが楽しそうな遊びをしていると「僕もやってみたい」とすぐに思ってしまう。
友達のピアノの発表会を観に行くと「おかさーん、ピアノやりたい」と駄々をこねた。テレビドラマ「スーパー戦隊シリーズ」に夢中になったのは、カッコいいからではなく、変身できたら面白そうに思ったからだ。戦うシーンよりも変身シーンを何回も見て練習した。ワールドカップの直後にはサッカー少年団へ入り、野球に興味が出ると野球部に入った。そして陸上の虜となり陸上部へ。少林寺拳法、習字教室、うるまエイサーなど、興味が次々と移った。ずっと続けてきたのは、うるまエイサーくらいだ。
そんな僕には大きな不満があった。新しく始めたいことがあっても、ほとんどの場合は「島では無理です」(道具不足、知識人不足、施設不足)と言われた。納得がいかなくて、悔しくて……。なぜ大人は島のせいにするのか。いつもそんなことを思っていた。
中学時代は丸刈りが義務付けられていた。先生が髪に指を当ててはみ出たら違反という、曖昧なかつ厳格な校則だった。噂は驚くほどはやく広まる。女の子と手を繋いで下校しようものなら、その夜には親の耳に入る。
地域が一体となり、そのコミュニティから逃れることは決してできない。成長するにつれ、将来は島を出て自由に暮らしたいという思いが膨らんだのは、ごく自然な流れであった。
私も当たり前のように島の高校へ進学し、野球部に入部。一日は朝練に始まり、放課後は部活をして、帰宅するのは午後10時頃だった。
ある日、5年後、10年後はどんな人生を送っているのかとふと思った。ほとんどの人は高校卒業と同時に島を出る。高校に届く指定校や専門学校の案内の中から進路を選ぶ。島には限られた仕事しかなく、島の外にどんな仕事があるかを知る機会はほとんどない。
将来の夢は何も決まってないけれど、次の一歩は自分の意思で決めたい。悩み抜くなかで、自分の根底にあるものに気がついた。この狭くて不便な社会を飛び出し、自由で便利な生活を手に入れたい。東京の大学へ進み、そして海外留学して、世界へ羽ばたきたい――。
僕が英語らしい英語を聞いたのは、島に住んでいる外国人のALT(外国語授業を補助する助手)の先生だけだった。英語に触れる機会が圧倒的に足りない。しかもALTの先生は日本語が堪能で、普段は日本語でコミュニケーションをとっていた。
大学に通って文化的にも豊かな人生を送れたかもしれない離島の子供たちの多くは、その選択肢さえ与えられないまま生涯を過ごす。その理不尽さに気付くことさえないのだ。
受験勉強は孤独だった。
放課後、先生にマンツーマンで指導を受けた。英語検定2級を高校2年で取得したいと思い、単語帳や参考書を買おうと思っても、本屋さんは島に一軒しかない。仕方がないので学校で使っている単語帳や問題集を何度も繰り返し解いた。
高校3年になると同級生たちは部活を引退し、就職や推薦で進路が決まれば島で過ごす最後の夏を満喫する。僕は毎日学校へ行き、黙々と机に向かった。「受験は団体戦」と言われるが、島ではどこまでも「個人戦」だった。
ある日、教室で独り残っていると、担任の先生が「東京へ進学したい人、留学したい人は周りにいないかもしれない。でも、自分に妥協した人の周りには、同じように妥協した人が集まってくる。ここで踏ん張れば、同じように踏ん張ってきた仲間に絶対に出会える」と励ましてくれた。
喜界島での孤独な受験勉強を通じて、僕は、グローバルとローカルをつなぐ「グローカル」な人になりたいという思いを強くした。東京はその第一歩だった。
2014年春、僕はその第一歩をつかんだ。明治学院大学に入学したのだ。この年、喜界島の高校を卒業した61人のうち、関東圏の大学に進学したのは僕を含めて3人だった。
あこがれの都会暮らしが始まった。だが、現実は甘くはなかった。〈to be continued〉
*「喜界島に生まれて(2)東京は、通過点だ」につづきます。
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