メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

「政策政党」という夢と実情

「杉田LGBT寄稿問題」への対応に見る自民党の本質(上)

佐藤信 東京都立大学法学部准教授(現代日本政治担当)

衆院本会議に臨む自民党の杉田水脈衆院議員(中央)=2018年5月25日衆院本会議に臨む自民党の杉田水脈衆院議員(中央)=2018年5月25日

底割れを感じた自民党の対応

 政治史なんぞ研究していると、次第に相場観のようなものがついてくる。そのうえで現実政治を見ていると、ときに底が割れるような感覚が襲うときがある。

 アメリカ政治であればトランプ大統領の誕生がそうだったであろうし、近年の日本政治であれば民進党の分裂騒動はそれに類した。そしてまた、今回の杉田水脈衆議院議員のLGBT支援批判をめぐる政情もまた、同じような感覚を伴った。

 杉田議員は、月刊誌『新潮45』8月号への寄稿文「『LGBT』支援の度が過ぎる」のなかで、LGBTカップルは子どもをつくらない、「生産性」がないとして、彼/彼女たちへの公的支援を批判した。本稿ではこれを便宜的に「杉田LGBT寄稿問題」と呼ぶ。

 杉田議員は国政政治家としては決して有名ではないが、以前からネット上では不勉強で偏見に満ちた過激な言辞でよく知られた政治家であった。だから、本人としても周囲としても、いつも通りといったくらいの調子だったかもしれない。実際、本人は22日にツイッターで「間違ったこと言ってないんだから、胸張ってればいいよ」などと「大臣クラスの方を始め、先輩方が声をかけて」くれたと語っていた(当該ツイートは23日に削除された)。

 自分が理解できないものを視界から排除しようとする心性は、国家統合の一部を担う議員としての資質を疑うが、ここではそこに深入りしない。実際、わたしが底割れを感じたのは、その後の政党の対応だからである。

政見の「幅」に入る杉田氏の見解

 杉田議員はかつて日本維新の会の所属議員として当選したことがあるが、昨年の衆院選では自民党に鞍替えして、比例中国ブロックで復活当選した純然たる自民党国会議員である。この問題について、自民党の要たる二階俊博幹事長は24日、「人それぞれ政治的立場、色んな人生観もある」として静観の立場を採った。もっとも、自民党がどんな政治的立場も、人生観も受け入れられるわけはない。彼女の見解は自民党の政見の「幅」に入ると表明したのだ。

 自民党はかつてあらゆる市民の支持を集めようとする観点から「包括政党」と呼ばれた。近年も基本的には世論に配慮することによって、「一党優位」を築き上げてきた。その自民党が世間の批判を敵に回してなお、この杉田LGBT寄稿問題に静観の姿勢を崩さなかったことは、それ自体驚きであった。そこに、自民党の本質を観(み)た者が多いのも、宜(むべ)なるかなという気がする。

公約にはあるけれど……

杉田水脈衆院議員の議員辞職を求め、自民党本部前で抗議活動をする人たち=2018年7月27日杉田水脈衆院議員の議員辞職を求め、自民党本部前で抗議活動をする人たち=2018年7月27日

 もっとも、メディアで採り上げられ、次第に火が燃え広がると、党もさすがに静観していられなくなった。自民党は8月1日、「自由民主党」名義で、杉田の見解は党の方針とは異なるとして、以下のような文章をウェブサイトに掲載した。

 「今回の杉田水脈議員の寄稿文に関しては、個人的な意見とは言え、問題への理解不足と関係者への配慮を欠いた表現があることも事実であり、本人には今後、十分に注意するよう指導した」

 杉田議員は「衆議院議員」という肩書で寄稿しており、それを「個人的な意見」として片付けていいのか……など、いろいろと引っかかる文章ではあるが、先を急ごう。

 確かに、昨年の自民党衆院選の公約のなかには、小さい文字で羅列された公約の一つとして性的指向・性自認について「多様性を受け入れていく社会の実現を図ります」という文言がある。

当選すれば、言いたい放題?

 再説するまでもないが、杉田議員は比例代表で選ばれた国会議員である。ついでに言えば、7月29日にAbemaTVの番組内で性的指向を「趣味みたいなもの」と発言した谷川とむ自民党議員も比例代表での復活当選である。

 彼女らは選挙区では十分な信任を得られなかった。それでも彼女らが国会議員であるのは、自民党の候補であり、その自民党が十分な支持を得たからである。そして、国民は何をみて自民党を信任するかというと(政策的投票の前提に立てば)公約による。この理屈に立てば、公約と明確に反する言論を、国会議員として発表していることは筋が通らない。

 杉田議員は「指導」を受けたあとも現時点まで一切の謝罪や撤回を避けており、自民党が離党勧告などの強硬手段に出ることもまず考えられない。とすると、果たして自民党は公約を維持しているのか、自民党の政見の「幅」が問題になる。

 いくら公約があっても、一度当選してしまえば――比例当選でさえ――、各議員が言いたい放題、やりたい放題ならば、党の政策や公約の拘束力、それに基づいた有権者の判断の価値は地に落ちる。この問題の背後には、政策を一元化する「政策政党」の当否の問題がある。

「政策政党」という夢

 政治について論者が「べき論」を語るとき、なんらかの夢を見ていることは自明である。しかし、同時に政治は「可能性の術」であるから、論者の説には何が現実的な目標かという状況判断が反映されることになる。

 わたしの最近の研究対象の一つは大正デモクラシーなのだが、当時のデモクラシー論者たちはエドマンド・バークの所説を参照しながら、しょっちゅう「ひとたび当選すれば議員は選挙区の利益から独立して判断すべき」と訴えている。

 いま日本国憲法を読んでみても「べき論」としてはそうあるべきなのだが、現在の政治学者でそんな夢を見る人は多くはない。選挙区の歓心を買わなければ当選できない以上、その利益を無視する政党政治家がいるわけないと知っているからである。

 そこで、近年の論者たちは、現実的な目標として「政策政党」に固執してきた。それは政党なるもの、一つの政策体系を軸に固まっているべきという議論である。三木武夫から石破茂に至るまで自民党内にも派閥解消の議論は続いているし、現在に至るまで比例代表という選挙制度が導入されているのも、政策を基軸に結合する政党への期待あってのことである。

 政党不信の高まる現在でも、政党研究の第一人者・待鳥聡史は、新著『民主主義にとって政党とは何か』(ミネルヴァ書房)のなかで、政党同士の競争によって代議制民主主義の安定を目指すことは難しいと認めながら、なお政党には意義があると強調する。そこで待鳥は、忙しい有権者に代わって政策課題についての情報や考え方を整理して有権者に提示する「情報伝達機能」は政党だからこそ担えるという。

政策の複雑性を拡大する政党

衆院選の公約を発表する、自民党の岸田文雄政調会長=2017年10月2日衆院選の公約を発表する、自民党の岸田文雄政調会長=2017年10月2日

 しかし、ここで立ち止まって考えてみて、わたしたちは、果たして政党のおかげで政策課題や政策決定過程についてよりよい知識を得ているだろうか。また政党は、あらゆる領域にまたがる政策の複雑性を縮減しているといえるだろうか。

 わたしは――日本の政党を前提とすれば――肯定的な答えをすることができない。確かに政党間対立は争点設定には寄与している。森友・加計学園問題が、あるいは文科省汚職が、そして改憲への可否が、国会の争点になっていることはわかる。だが、たとえば自民党と立憲民主党の間の改憲の可否をめぐる対立が、他の政策領域の争点と有機的にリンケージしているとはとても考えられない。むしろ、現実の政党は政策の複雑性を拡大しているのではないか。

 杉田LGBT寄稿問題に現れているように、各政党の各議員は総花的な公約にすら収まりきらない多様性を持っている。「この人がなぜ自民党にいるのかわからない」、「この人がなぜ自民党に移らないのかわからない」という状況が常態化していることは、与党も野党も政策の一元化とは程遠い実態にあることをよく示している。

「政策政党」を求めていない有権者

 おまけに、有権者も「政策政党」など求めていない。8月4~5日に行われた『朝日新聞』の世論調査によれば、杉田LGBT寄稿問題への自民党の対応がマズかったと考える人は実に61%(自民党内でも47%)もいるのに、内閣支持率は前月の調査から変わらず38%(不支持率は41%)、支持政党は自民党が36%で他を大きく引き離している。

 党内がまとまっていなくとも、つまり「政策政党」ではなくとも、政党は支持を獲得することができるのである。「政策政党」は実現しそうもないうえ、求められてもいない。

 わたしたちは、政党への「夢」ではなく、その「実情」を冷徹に見通す営為を始めなければならないのではないか。

続く。次回は「党よりも個人。『政策政党』の実情」は23日に「公開」します

党よりも個人。「政策政党」の実情 「杉田LGBT寄稿問題」への対応に見る自民党の本質(下)