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党よりも個人。「政策政党」の実情

「杉田LGBT寄稿問題」への対応に見る自民党の本質(下)

佐藤信 東京都立大学法学部准教授(現代日本政治担当)

衆院本会議に臨む自民党の杉田水脈衆院議員(中央)=2018年5月25日衆院本会議に臨む自民党の杉田水脈衆院議員(中央)=2018年5月25日

自民党内で圧倒的な安倍総裁の権力

 「『政策政党』という夢と実情 『杉田LGBT寄稿問題』への対応に見る自民党の本質(上)」の最後で、わたしたちは政党への「夢」ではなく、その「実情」を冷徹に見通す営為を始めなければならないのではないか、と書いた。そこにある「実情」とは、特定の個人やグループの政党に対する優位である。

 自民党における安倍晋三総裁の権力がいかに大きいものかはいまさら言うまでもない。昨年5月3日、それまでの自民党憲法改正草案とは別に突然打ち出された安倍首相の憲法草案が、党内での反対にもかかわらず、あれよあれよという間に自民党の方針になったことが何よりの証しであろう。

 官邸にはいま、ブレーンも、官邸官僚もいくらでもいる。そうした人士(じんし)の意見を吸い込んで、党内の合意形成過程をスキップできるほどまでに、現在の安倍総裁の力は圧倒的になっているといってよい。そのことは今回の「杉田LGBT寄稿問題」でも観察された。

党の幹事長が置いてきぼりに

自民党山口県連が主催する会で、「がんばろう三唱」をする安倍晋三首相(中央左)と妻の昭恵氏(同右)ら=2018年8月11日、山口市自民党山口県連が主催する会で、「がんばろう三唱」をする安倍晋三首相(中央左)と妻の昭恵氏(同右)ら=2018年8月11日、山口市

 杉田議員自身の政見は忠実な安倍晋三支持であり、自民党に鞍(くら)替えして当選してからは、(安倍首相の出身母体たる)細田派に所属している。だから、その発言の余波は近づく総裁選にも及ぶかもしれない。

 とりわけ、党内の顕在的・潜在的対立候補と目される石破茂衆議院議員や小泉進次郎衆議院議員が批判するなかで、無言の擁護と看做(みな)されるのは不利だろう。そこで安倍首相は2日になって、杉田議員の名前を挙げずに、人権と多様性の擁護が政府与党の方針だと幕引きを図った。それは、自民党のウェブサイトの掲示の時期と方針と全く符合している。

 ところが、ここで注意したいのは、同日、韓国訪問中の二階幹事長が杉田議員や続く谷川とむ議員の言葉を念頭に、「この程度の発言」で「大げさに騒がないほうがいい」と発言したことである。外遊中とはいえ、自民党の要(かなめ)たる幹事長が置いてきぼりになっていた状況が浮き彫りになる。自民党がその方針について安倍首相を中心に回っていることが、はしなくも明らかにされたかたちである。

小泉進次郎という「ニュースター」の位置づけ

 この種のことはいくらでも例を挙げることはできるだろうが、それはここでわたしの役目ではない。ただ、ここで指摘する必要があるのは、市井の人びとは政府・与党の基本方針が知りたいとき、自民党ではなく安倍首相だけを見ていればよいという状況が生じている、ということだ。政界と市井とのコミュニケーションの機能は、政党ではなく、首相という個人、ないしそれを取り巻くグループによって担われている。

 そう考えることで、小泉進次郎という「ニュースター」の位置付けも、よりよく理解できる。小泉議員の勢いの源泉が、そのルックスや血統に支えられた圧倒的人気と、その能力にあることは言うまでもないが、しかし、その勢いが持続している理由は別にある。

 共同通信の田崎史郎氏がまとめた『小泉進次郎と福田達夫』(文春新書)という本がある。小泉純一郎と福田康夫という二人の総理の息子の対談という謳(うた)い文句だが、二人がこの本で強調したかったのは、彼ら自民党若手議員が中心となって進めた全農改革の画期性だ。そこで、彼らは次のような会話をしている。

「福田 彼ら[官僚]からしても、[小泉]部会長が発信すると、農政が初めて新聞の一面に載るわけですよ。だからまったく別次元のやり甲斐が生まれる。[…]
小泉 それは僕じゃなくて、僕のことを支えてくれた若手のチームが、達夫さんはじめ、他の皆さんとほんとに密にやっていたから、そのお陰だと思う。ほんとに自分たち政治家を背負ってくれていると思う。」

政党に対して優位に立つ個人やグループ

国会改革案について記者会見する自民党の小泉進次郎氏(中央)ら=2018年6月27日、東京・永田町の衆院第1議員会館国会改革案について記者会見する自民党の小泉進次郎氏(中央)ら=2018年6月27日、東京・永田町の衆院第1議員会館

 小泉議員の圧倒的な人気と能力は大前提だが、そこに若手自民党議員と若手官僚が集って、政策をアウトプットしていく集団が形成されている様子がよくわかる。多くの人を集めながら進む小泉グループ――と便宜的に呼ぶが――の勢いは、国会改革にもつながっていく。

 すでに民主党政権下の構想も包含して国会改革を提起した小泉議員らは、さらに「「平成のうちに」衆議院改革実現会議」と銘打ってさっそく超党派議連まで発足させている。このグループには、自民党では括(くく)りきれない勢いと政策能力がある。そして、領域をまたいで政策をリンケージし、国民に提示する情報伝達機能を十分に持っている。

 こうした個人やグループの優位は、大衆社会とマスメディア状況における象徴(シンボル)化として把握することができる。政党もなお象徴として機能しているが、「アベ」や「コイズミ」や「エダノ」といった象徴は、もはや政党を乗り越え始めている。こうして生じる個人やグループの政党に対する優位は、良い悪いとか、民主的・非民主的とかいう問題ではなく、現実に起こっている政治変容なのである。

政党の実態は選挙互助組織

 官僚の力を吸い込みながら進む個人やグループの政策立案能力や情報伝達能力が、政党を凌駕(りょうが)しつつあるのだとすれば、果たして政党はなんのためにあるのだろうか。それは、身も蓋もないが、選挙互助組織としてである。

 有権者が覚えることのできる政治家の名前など高が知れている。多くの無名な議員たちは、政党という看板に頼るほかない。いくら特定の個人やグループが優位な時代でも、投票ブースには政党名しか書いていないからである。

 待鳥聡史『政党システムと政党組織』(東京大学出版会)が述べるように、近年の政治学は各候補者の行動を「ミクロ的基礎付け」から裏付けようとしており、そこでは候補者が再選を求めて政党選択をしていることは半ば前提である。杉田議員が前回選挙で次世代の党から出馬して落選し、昨年の選挙で自民党に鞍替えしたのもそこから容易に説明できる。

 そしてまた7月、自民党は自党の候補の救済という党益のために公職選挙法改正を行った。来年の参院選から適用されるこの改正は、非拘束名簿式と拘束式を混在させ、国民にとってすでにわかりにくい選挙制度をさらに複雑化するものだ。これも、政党が国民のためでなく候補者のための集団と考えれば当然の行動であろう。

政策ではわからない政党の立ち位置

  政党が単なる選挙互助組織であるとするなら、問題になるのは政策のゆくえだ。

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