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田中均氏が問う自民党総裁選

日本社会を覆うガバナンスの崩壊。権力者の選び方、チェックの仕方を見直したい

田中均 (株)日本総研 国際戦略研究所特別顧問(前理事長)、元外務審議官

田中均・元外務審議官

ガバナンスが問われている

 最近マスメディアを賑わしてきた事件の多くには、今日の日本社会を覆う共通の病根があるような気がしてならない。森友・加計問題に始まり、財務次官のセクハラ問題、日大アメフト事件、東京医大贈収賄事件そして日本ボクシング連盟問題。何が共通の病根なのだろうか。

 われわれの社会では、組織の長は優れた資質を持つ者として民主的に任じられているはずだという前提がある。しかし、どの事件をとっても、程度の差はあれ、組織で圧倒的な力を持った人物が権力を私物化する、原理原則を無視して強権を行使する、あるいは、周りの人々が忖度をしだすといった現象を生み出している。

 どの国でも、どの時代でも、権力は傲慢になり、強権的に行動する傾向を持ってきた。民主主義社会ではそれを防ぐため、自浄作用が働くよう手続きが整備されてきた。そのような手続きは「説明責任」や「透明性」といった基本原則に支えられている。ところがいずれのケースにおいても、手続きが十分機能し、透明性や説明責任の原則が守られたとは考え難い。

 問われているのは、組織の「ガバナンス」だろうし、問題となった人物が辞めることで一件落着となるのではなく、ガバナンスを正していく努力が求められる。おそらく、ガバナンスの問題は、十分な資質を持った人を組織の長に選ぶ事が出来ているのか、及び、権力を恣意的に使わないようにチェックすることが出来ているのか、という二つの課題に集約されるのだろう。

 とりわけ国家のガバナンスは重要であり、すべての組織のモデルとなる。

 その中で事実上今後3年間の首相を選ぶ自民党総裁選挙が行われるので、国家のガバナンスという見地から論点を整理してみたい。

権力者の選び方をもっと競争的に

安倍晋三首相=2018年8月11日、山口市
 まず権力者になる政治家の選ばれ方だ。

 政治家は優れた道義心と国家に奉仕するという使命感を持ち、国民に信頼されなければならない。そのような資質を持った指導者ならば、権力行使は自制すべしと認識するはずだ。

 ところが日本では先進民主主義国に殆ど例を見ないほど多くの二世議員、三世議員を輩出している。中には政治家であることを平気で「ファミリービジネス」といって憚らない議員がいる。勿論、中には親の職業を通じて国家に奉仕する使命感をより強くした二世議員もいるのだろうが、多くは地域での知名度、後援会組織といった看板を背負うことにより選挙を容易に戦えるという利点から世襲するのだろう。

 そして、過去においては自民党の派閥は、議員の教育という重要な任務を担っていた。今日、そのような機能は薄れてしまった。その結果、本来は首相としての資質や使命感、信念、政策が問われる競争の場である自民党総裁選挙に自分の旗を立てて立候補をしようという志を持つ政治家も数少なくなってしまった。それどころか派閥の大半が立候補者も出揃わない段階で総裁三選支持を表明する始末である。

 一方、支持しない派閥には「冷や飯を食わせる」といった乱暴な議論が横行している。三年間この国の舵取りを任せる首相を選ぶには慎重に候補者の資質と政策を判断しなければならないはずだ。今日の派閥は先を争って支持を表明することによって人事などでの直接的な見返りが得られると考えるのだろうか。

 米国の大統領予備選挙や英国の党首選挙が個人の資質が問われる厳しい競争の場であるのに比べても見劣りしない選挙戦が始まって欲しいと思うが、これは幻想に過ぎないのか。

権力へのチェックが働かない

自民党の石破茂元幹事長=2018年8月10日、東京・永田町
 権力者に対する十分なチェックのシステムは働いているのだろうか。

 チェックの役割はまず政治自体に求められる。自民党はもともとリベラルから保守まで多様な考えを許容する政党だといわれてきたし、派閥の掲げる理念には差があった。このような相違の故に派閥間に競争が起こり、権力が傲慢になるのがチェックされてきたといえる。

 また自民党と連立を組む公明党の役割はこれまで大きかったし、巨大な多数党が独善的となるのをとめる役割が期待できた。そして当然野党は国会において政権監視の機能を果たさなければならない。ところが今日、派閥、連立パートナーたる公明党、野党のいずれも権力に対する十分なチェック機能を果たしているとは到底思えない。

 これは巨大与党の権力の大きさの故なのか。これを是正していくためには、国政選挙における国民の判断を待たざるを得ないということなのか。

 「官邸1強体制」やその結果生じている「忖度」の問題が提起しているのは、政府の政策が政治家と官僚の適切な役割分担の中で決定されていないのではないか、権力者の恣意的判断がまかり通っているのではないか、という疑念だ。

官僚のプロフェッショナリズムを戻すには

 政官関係が問われなければならない。従来言われてきたように、官僚が力を持ちすぎているという状況は民主党政権やその後の自民党政権下で是正されてきた。これは正しい方向であるが、官を政治のコントロールの下に置くという考え方の下で、官邸が官庁幹部の人事権を掌握し、結果として客観的な政策議論よりも官邸の顔色を見て政策を作るといった省庁の雰囲気を生んでしまったことも事実であろう。

 本来官僚に必要なのはプロフェッショナルとしての見識を示すことにあるはずだ。官邸の意向とはそぐわなくともプロフェッショナリズムに徹しようとする官僚がはたして今日、どれだけいるのだろうか。

 これも人事のやり方に帰するところが大きい。内閣人事局も当然のことながら国家公務員法に基づき「実績と能力」で人事評価を行なわなければならない。

 今、必要であるのは人事が政治家によって恣意的に行われないことを担保できるようなある程度透明性を持ったガイドラインの制定なのであろう。

メディアは政府の情報に依存しすぎている

 権力監視の上で本来メディアの役割は大きいはずだ。

 民主主義国のメディアは政権批判勢力として強い権力に立ち向かってこそ存在意義があるのだろうが、日本でそのような機能を期待するのは間違いなのか。

 日本において特異な現象は政府の提供する情報に依存しすぎているという点だ。

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