沖縄県知事選が始まる。大事なのは、小さな島で、誰が勝つか、負けるかではない
2018年08月22日
「平和を守るためには鬼になる」。沖縄戦最後の激戦地、糸満市摩文仁にある「魂魄の塔」(こんぱくのとう)に込められた意味を私に教えてくれたのは、後に沖縄県知事になった翁長雄志だった。
2014年10月、沖縄県知事選挙の真っただ中だったが、どうしてもこの場所で話を聞きたいと頼んだ。
沖縄保守の顔だった翁長がなぜ、長年過ごした自民党を離れ、辺野古反対に転じたのかを知るヒントが、ここにあると考えたからだ。
魂魄の塔は、学校長だった翁長の父、助静らによって建立された。一般住民を含む約20万人が命を落とした沖縄戦。翁長も祖父と叔母をここで亡くしている。
助静らは戦後、野ざらしになっていた遺骨を拾い集め、埋葬した。翁長は子どもの頃から、ずっと父と共に、この場所を訪れ、手を合わせていた。
翁長がすい臓がんだと発表された後、もう一度話を聞きたいと考えた。自身が語ったように、鬼の形相で政府と対峙した翁長の、心の内を知りたいと思ったのだ。
その思いは果たせなかった。翁長の死後、魂魄の塔で撮ったインタビューを見直して、はっとした。遺言とも思えるような言葉が遺されていることに気がついたからだ。
激しいヘイトスピーチの先には、沖縄からやって来た約140人の代表団がいた。2013年1月、オスプレイ配備反対を安倍総理に直訴しようと、市町村長や議会議員らが上京した東京要請行動での一幕だ。このとき、横断幕を持って、先頭を歩いていたのが、翁長だった。
那覇市長だった翁長が、沖縄のリーダーになると予感したのは、この時である。
米本国でも、事故の危険性が指摘されてきたオスプレイの配備を阻止したい。これ以上の基地負担は受け入れられない。ただその一念で、保革の枠組みを超え、上京した代表団だった。
自民党議員でさえも、官邸とのアポイントはなかなか取れない。都内の会議室で待機しているとき、革新系議員が私に言った。
「今回は僕たちを撮らないで、翁長にインタビューをしなさい。これから沖縄のリーダーになるのは翁長だ」
他の議員たちが雑談して時間を潰す中、翁長は一人静かに机に向かっていた。日比谷野外音楽堂で予定されている集会でのスピーチを考えていたのだ。
翁長と言えば、自民党県連の幹事長も務めた保守の重鎮だった。辺野古の旗振り役だった時期もある。そんな翁長が、次のリーダーだという革新系議員の言葉には半信半疑だった。
日比谷のスピーチで、それは確信に変わった。
「安倍総理は日本を取り戻すとおっしゃっておりますが、この中に沖縄は入っているのでしょうか。沖縄が日本に甘えているのでしょうか、日本が沖縄に甘えているのでしょうか」
中央の大物政治家たちとも、堂々と渡り合う姿からは、党とも、政府とも上手くやっているように見えた。だから、余裕の表情の裏側に、こんな憤りや情熱が隠されていたことに驚いた。
翁長はこの日、革新系議員たちと共に、保守が決して歌わない、本土復帰運動のときに歌われた「沖縄を返せ」を合唱したあと、吹っ切れた様子だった。
それは、翁長が権力の側から、はみ出した瞬間だった。
「保守、革新を乗り越えて、県民が一つにならなければ、日米政府という絶大な権力と闘えない」
2014年9月、翁長は、イデオロギーよりアイデンティティに基づく「オール沖縄」で闘っていこうと訴え、知事選出馬を表明した。
その頃、普天間基地移設問題は、新たな局面を迎えていた。現職の仲井眞弘多知事(当時)が、名護市辺野古にある米軍キャンプシュワブ沿岸の約160ヘクタールを埋め立てる計画に承認したのだ。
そこに造られる基地が完成すれば、1800メートルの滑走路2本と、強襲揚陸艦も接岸できる軍港機能も備えた巨大なものになる。翁長は、埋め立て地に基地が造られることが、沖縄にとって、これまでと違う意味合いを持つことを敏感に察知していた。
「辺野古に基地ができると国有地になる。今後この辺野古基地には、私たちの自己決定権が及ばない。100年も、200年もそこに基地を置こうとしたら国の思うままだ」
国有地となった基地が、どう使われようが、沖縄県民は物が言えなくなる。
「保守と革新に分かれて白黒闘争している場合じゃない。そんなことをしているから、上から見て笑っている人がいるんじゃないか」
この言葉を聞いてドキッとした。翁長は、権力の側にいたときから、ずっと気が付いていたのだ。島は事あるごとに二分され、対立を強いられるけれど、その対立の現場にはいつも、沖縄の人たちを分断し、負担を押し付けている人々はいない、ということを。
辺野古に足を運ぶと、座り込みを続けている人たちが、プラカードを持って沿道に並び、迎えた。街宣車が村の小さな路地を通ると、家の中から、オジイやオバアが出てきて、拝む場面さえ見られた。
こうして翁長は、沖縄のリーダーになった。
あれからわずか4年、誰がこんな最期を想像しただろうか。
翁長の知事生活は、屈辱と苦悩の連続だった。長年、一緒にやってきた政権の中枢は、裏切り者とばかりに冷遇した。公約通り、辺野古阻止に向け、仲井眞前知事が行った埋め立て承認取り消しなどに踏み切ったが、法廷闘争では負けの連続だった。
任期があと1年になった頃、翁長には最後のカードである埋め立て承認「撤回」しか残されていなかった。そのカードをいつ切るか、注目されていた矢先に、翁長は病に倒れた。
翁長の追悼となったこともあり、県民大会には主催者発表で約7万人が集まった。途中から降り出した雨に濡れながら考えた。翁長が背負った物は何だったのだろうかと。
本土から沖縄へ吹き付ける風は強くて冷たい。戦争も戦後の貧しさも知らない閣僚たちが、目先の判断で沖縄に負担を押し付けてくる。沖縄が受けた戦争の痛みや、占領下の惨めさを訴えたところで、通用しない。
県民の心も揺さぶられている。政府がいよいよ、辺野古に土砂を投入すると通知すると、激しい動揺と、翁長への不信感が広がった。なかなか埋め立て承認撤回に踏み切らないことに、しびれを切らした人々からは、「翁長は(撤回)やるやる詐欺だ」といった批判も上がり始めた。知事室の前に、市民たちが押し寄せ、座り込む騒ぎも起きた。
しかしよく考えてみると、当初から現行法で、辺野古を止めることが難しいことは、多くの人がうすうす理解していた。それをやり遂げるには、翁長が言ったように、小さな沖縄が一つにまとまり、大きな権力に対し、声を上げ続けていくしかないと。
翁長の次男・雄治は壇上で、翁長が病床でも最期まであきらめず、資料を読んでいたエピソードを語った。そして父から繰り返し聞いたという言葉を語った。
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