メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

無料

龍安寺の石庭は、韓国ではあり得ない

日韓の庭園形式に政治観・宗教観の違いをみる

徐正敏 明治学院大学教授(宗教史)、キリスト教研究所所長

*この記事は筆者が日本語と韓国語で執筆しました。韓国語版(한국어판)でもご覧ください。

拡大龍安寺の石庭=2014年4月10日、京都市右京区

韓国は自然の中に家屋を入れ、日本は家屋の中に自然を入れる

 韓国では、絵画のような山川風景が広がっている場所には、昔の「ソンビ」(「ヤンバン」ともいうエリート貴族)たちが建てた「亭子」(あずま屋)が必ずある。伝統家屋の前後の門を開けると、前を流れる小川と後ろの裏山をまっすぐ貫く「風の道」ができ、自然、家屋、人が一体となる。

 日本は違う。以前に伝統的な日本建築の家屋を訪れる機会があった。典型的な日本庭園がある屋敷だった。散策してみると、その庭には小さな山がこしらえられていて、池があり滝が流れていた。もちろん小川には橋も架けられている。池には鯉がゆったりと泳ぎ、風が庭にある山の谷間を吹き抜けていった。自然の形状をそのまま縮約したように、庭は自然のミニチュアである。そして、屋敷の大門を出ると、そこは邸内とは別世界であり、庭園の世界観は門を境に分断されるのだ。

 筆者は最近、このような文化様式の差異を通して、日本と韓国の異なる文化、宗教、歴史の潮流を比較できることに注目している。

 韓国人は自然に身を任せ、その流れに自らをゆだね揺らされることを楽しみにしている。彼らはそこにある秩序への反抗やそこからの逸脱を望まない。

 日本人は自然を「シンボル化」し、そのエッセンスをまとめ、新たに自分の目前に造形するのを楽しんでいる。そこには自然と自身を区別し、新たに造形した「自然」と向き合う自己を大切にする日本人の特徴があらわれている。

 遠くにある山を眺めながら瞑想する韓国の修道者とは異なり、日本人は庭にある目前の小さな岩山を眺め、自分自身の内面を探ろうとする。

 京都の名刹、龍安寺には人工的な庭(石庭)があり、そこで小さく整えられた岩山を眺めながら人々は真理の道に入ろうとする。韓国にはそのような庭はない。

 韓国にある多くの亭子は断崖絶壁の上や川岸、大きな滝の傍らや、水平線の向こうに朝日をのぞむ海岸に建てられる。そのような韓国の亭子は日本には見当たらない。

 もちろん、あまりにも単純な比較には慎重を期すべきであることは承知しているが、それでもなお筆者は、龍安寺の石庭は日本では受け入れられても、韓国ではあり得ないことだと確信するのである。逆に韓国の諸処にある亭子のような建造物は、日本にはほぼ存在しない。

 韓国は自然の中に入って遊び、日本は自然を屋内に持ち込んで遊ぶ。その代表例が盆栽であろう。と、ここまでは誰にでもできる考察である。

自然を見る目は、そのまま神をみる目である


関連記事

筆者

徐正敏

徐正敏(そ・じょんみん) 明治学院大学教授(宗教史)、キリスト教研究所所長

1956年韓国生まれ。韓国延世大学と大学院で修学。日本同志社大学博士学位取得。韓国延世大学と同大学院教授、同神科大学副学長、明治学院大学招聘教授、同客員教授を経て現職。アジア宗教史、日韓キリスト教史、日韓関係史専門。留学時代を含めて10年以上日本で生活しながら東アジアの宗教、文化、社会、政治、特に日韓関係を研究している。主なる和文著書は、『日韓キリスト教関係史研究』(日本キリスト教団出版局、2009)、『韓国キリスト教史概論』(かんよう出版、2012)、『日韓キリスト教関係史論選』(かんよう出版、2013)、『韓国カトリック史概論』(かんよう出版、2015)、『東アジアの平和と和解』(共著、関西学院大学出版会、2017)など、以外日韓語での著書50巻以上。

徐正敏の記事

もっと見る