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龍安寺の石庭は、韓国ではあり得ない

日韓の庭園形式に政治観・宗教観の違いをみる

徐正敏 明治学院大学教授(宗教史)、キリスト教研究所所長

拡大韓国・丹陽の「島潭三峯」にある亭子=「韓国観光公社」ホームページより
 筆者は、日本では「他力救済」(外部の大きな力によって救済を受けること)の信仰は、文化的にそぐわないのではないかと感じている。自身による全力の祈りや働きかけなしに、ただただ恩恵を受けるというようなことについて、気分的に憚られて、遠慮すべきことであるのではないか。

 一方的に与えられるだけの恩恵は、日本の文化においては違和感がぬぐえないのだろう。自然を愛しつつも、それを模倣し、自然からは切り離された小ぎれいな庭をこしらえる文化を生きる人々であるからか、日本人には「功徳」(働きかけ)の伴わない「恵み」は気持ちの負担となるのかもしれないし、あるいはどこかで信用しきれないものがあるのかもしれない。

 ともかく日本の伝統文化では「自力救済」の信仰の方がより説得力がある。キリスト教についていえば、救済のために人間の「善行」と神と人との「協同」(神人協同)を説くカトリック神学の考えや、プロテスタントの「聖化論」(聖霊の働きと信徒の努力によって聖なるものとされる。そのことで人間が救われるというメソジスト中心の神学)のほうが、日本人には馴染みやすいのかもしれない。

 これに対して、韓国の自然受容の文化的伝統からは、功徳なき恩恵であってもそれを容易に受け入れる姿勢を読み解くことができる。庭園様式の比較からそこまで風呂敷を広げるのかという声も聞こえそうだが、これこそが宗教信仰形成を考えるベースになるのではないかと筆者は考えている。

 言い換えれば、「ただ」の恩恵をあまり受け入れない日本と、比較的頻繁にある「ただ」の恩恵を喜んで受け入れる韓国では、宗教、信仰、恩恵に対する感覚も異なると思うのである(もちろんあくまでも個人的な考えであり、議論が必要かもしれない)。

 韓国には、朝鮮時代後期の「鄭鑑録(じょんかんろく)」が民衆の間に広く受け入れられた歴史がある。「鄭鑑録」とは、いつか近い未来に韓国版「メシア」が来て、「天地開闢」(ちょんちけびょく)つまりは世界が原初の姿にもどり、民衆を「救済」するという民間信仰である。

 宗教学的観点からは、もともとメシアニズム(messianism:メシアによる終末的救済による新しい世界秩序の創造を待望すること)を根本的な枠組みとしているキリスト教が、特に韓国で民衆たちに受容された要因として説明することが可能である。つまり、韓国民衆の「救済願望」がキリスト教受容を媒介して、促進する役割を果たしたということである。

日清・日露戦争当時、韓国の民衆はキリスト教会に駆け込んだ


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筆者

徐正敏

徐正敏(そ・じょんみん) 明治学院大学教授(宗教史)、キリスト教研究所所長

1956年韓国生まれ。韓国延世大学と大学院で修学。日本同志社大学博士学位取得。韓国延世大学と同大学院教授、同神科大学副学長、明治学院大学招聘教授、同客員教授を経て現職。アジア宗教史、日韓キリスト教史、日韓関係史専門。留学時代を含めて10年以上日本で生活しながら東アジアの宗教、文化、社会、政治、特に日韓関係を研究している。主なる和文著書は、『日韓キリスト教関係史研究』(日本キリスト教団出版局、2009)、『韓国キリスト教史概論』(かんよう出版、2012)、『日韓キリスト教関係史論選』(かんよう出版、2013)、『韓国カトリック史概論』(かんよう出版、2015)、『東アジアの平和と和解』(共著、関西学院大学出版会、2017)など、以外日韓語での著書50巻以上。

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