小学6年で「那覇市長になる」と宣言した翁長氏が政治家人生の最後に求めたものは
2018年09月03日
翁長雄志・沖縄県知事と最後に言葉を交わしたのは、慰霊の日(6月23日)の2日前だった。
当初、そんなつもりはなかった。すい臓ガンの手術を受けたのだ、それどころではないだろう。一年前には慰霊の日のやはり2日前にインタビューしたものの、今年は取材の申し込みすらしないでおくつもりだった。
ところが退院した日のすっかり痩せた姿を見てからというもの、少しずつ気持ちが変わっていった。会っておかないと後悔するような気がしたのだ。取材という形であろうと、なかろうと、いやそんなことよりも、個人的に挨拶だけでもしておきたいという思いに駆られた。
取材で滞在したときが議会の開会中だったこともあって、時間をつくってもらうことは叶(かな)わなかったけれど、それでもあきらめきれない。昼休みのあと午後の議会が始まるタイミングに、議場の入り口で待つことにした。
知事控室から翁長知事が姿を見せる。足取りは弱々しい。わずかにうつむく姿は、自分の足が一歩一歩、前に運ばれていることを確認しているようにも見えた。
翁長知事は私を目にするや、少しだけ表情を緩めた。
「今回は時間が取れず、申し訳ない」
かすれた声を絞り出すように言って、ゆっくりと右手を伸ばす。
「とんでもないです」
私も右手を出して握手した。おそらく握ろうとしてくれたのだろう。しかしその手には驚くほど力がなかった。
翁長知事に会うたび感じるのは、身体から発するエネルギーの強さだ。怒りなのか、苛立ちなのか、これまで生きてきた時間そのものが源にあるのだろう。ところがそのエネルギーがまるで伝わってこない。それどころか目の前にいるはずの翁長知事が急速に遠ざかっていくような錯覚にとらわれた。命の火が弱くなっているのは明らかだった。
翁長知事の小さくなった背中を見送りながら、私は心のなかでささやいた。
「ありがとうございました」
なぜとっさにそう言ったのかわからない。
しかしそれが私にとっての別れの言葉だった。
翁長知事はどんな人物だったか。政治家としての軌跡については、様々な場ですでに語られている文章に委ねるとして、私は自分の耳で聞いた翁長氏の言葉をたどることで、その内面にあったものを見つめたいと思う。
「私はいびつな人間になってますから」
4年前、知事に当選した日の深夜、翁長氏は私にそう漏らした。祭りのあとの静けさに包まれた選挙対策本部でのことだった。
私が当選後の気持ちを尋ねると、翁長氏はさばさばした表情で「感慨もなければ、高揚感もない」と言い切った。3時間ほど前には支持者たちとカチャーシーを踊って喜びを爆発させたではないか、その時ですら冷静だったのかと問うと、彼は肯いて言ったのだ。自分はいびつな人間になっているからと。
それは父と兄が政治家という一家で育ち、「子どものころから選挙の熱気も、終わったあとのさびしさも十分すぎるほど味わってきたからだ」と翁長氏は言う。そして「父と兄は選挙で8勝7敗、自分は9連勝だけどね」と付け加え、「翁長家としては17勝7敗か」と笑った。
小学校6年生のときに「那覇市長になる」と宣言して、クラスメイトを驚かせて以来、翁長氏は政治家として生きると定めてきた。その結果「政治っていうものは私のすべてなんです」と言うまでの心境になったのだ。
「政治家としては超プロですよ」
稲嶺恵一元知事は翁長氏を評して言う。
「子どものころから鍛えられて、意識して物事を見て、判断して、しゃべってたんだと。だから口数は多いけど、余計なことは一切言いません」
「本音も?」と私は尋ねた。
「もちろん」
稲嶺氏と翁長氏は同じ門中だ。門中とは同じ祖先を持つ一族のことで、その結びつきは本土よりはるかに強い。しかも稲嶺氏を知事にかついだのも、沖縄県連幹事長時代の翁長氏だった。つまり公私共々、深い関係にある。その稲嶺氏が、翁長氏は余計なことは一切言わないから、本当は何を考えているかわからないと言うのだ。
「小学校のときから政治家を目指していた人は違うんじゃないですか。軸を信念として持っている。それは読み取れないですよ」
「それは近くにいらっしゃっても分からない?」と私は尋ねた。
「わからないです。全然わからない」と稲嶺氏は首を横に振った。
自分は何者なのか。どう自己規定するかで、人の生き方は大きく変わっていく。稲嶺氏は沖縄県知事を2期つとめたとはいえ、本籍は「経済界」であり、仲井眞弘多前知事も通産省官僚と経済界という流れの先に政治が付け加わった。大田昌秀元知事にも「研究者」という本業があった。しかし翁長氏に帰る場所はない。政治家であるという強烈な自己規定が、彼の人生の軸を形作ってきたのだ。
沖縄で政治家として生きるということは、沖縄の歴史を背負い込むことでもある。父親が保守の政治家だったことも影響したのだろう、翁長氏も保守という立場をとった。「異民族支配のなかで、革新は人権の戦いをし、保守は生活の戦いをしていた」と翁長氏が言う沖縄の政治のなかで、彼は生活の戦いに身を投じる。中央政府を担う自民党に連なる政治家になったのだ。
そう思い定めると翁長氏は与えられた役割に徹する。
自民党の県連幹事長として、革新の大田知事を議会で攻め立てる激しさは語り草になっているほどだ。さらに大田知事の3期目をはばんだ知事選での立ち居振る舞いは、すさまじい。国に先駆けて自民党と公明党が選挙協力する体制をつくったほか、国と対立しているから不況になったというイメージを広めるため「県政不況」というレッテルを貼ることで、大田知事を落選に追い込むのだ。それは大田氏が晩年まで苦々しい思い抜きには翁長氏について語れなかったほど、容赦ないものだった。
ところが那覇市長になるや、その振る舞いは一変する。翁長氏はそのときの心境をこう語った。
「自民党も離党し、県連の(幹部としての)使命も終えた。私のバックボーンは市民だと思いました」
自民党の幹部というくびきから解放されたのだろう。翁長氏は、市長という仕事は保守、革新など関係なく市民全体の奉仕者だという、ごく当たり前の思いを抱く。そして子どものころ「なんで自分が持ってきたわけでもない基地を挟んで、あいつは保守だ、革新だと罵りあうんだ」と感じていた疑問が、その思いを後押しする。
翁長氏は「ノーサイド」とばかり革新系の幹部も重用し、冷戦を終わらせたソ連のゴルバチョフ書記長を沖縄に招へいし、基地問題でアメリカ政府に直訴するためワシントンに行く稲嶺知事に志願して同行し、普天間基地の機能の一部を硫黄島に移せないかと画策する。意表をついたこの移設案は、ガンに見舞われて胃を全摘するなどする過程で断念を余儀なくされる。
その後、鳩山由紀夫首相の「最低でも県外」発言で、多くの県民と同じように翁長氏もそれまでの「苦渋の選択」から解放される。革新だけでなく、保守の政治家たちも一斉に、辺野古移設反対に回るのだ。こうした事態はそれまでないことだった。
その流れのなかで沖縄に41ある全市町村が「普天間基地の県内移設断念」などを求めた建白書を政府に提出するのだが、安倍晋三総理に代表して手渡したのは他でもない、那覇市長の翁長氏だった。
そうしたなかで仲井眞知事が態度をひるがえす。首相官邸で安倍総理らと会談し、多額の振興予算を確保できたとして記者団にこう述べた。
「これはいい正月になるなあというのが、私の実感です」
この言葉について翁長氏に尋ねると、こう答えた。
「沖縄ではですね、いい正月を迎えられるというのはですね、言葉遣いとしては二通りあるんですよ。例えば孫が生まれたとかでいい正月が迎えられる。ところがもうひとつの意味では、他人の犠牲の上に立ったもので自分が何かやったときに、たいへん屈辱的なものの場合にですね、一部の人がいい正月を迎えられるっていうときにも使うんですよ」
翁長氏は怒りというより、失望の色を顔に浮かべていた。
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