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内戦続くシリア――軽食の定番「ファラーフェル」

安田菜津紀 フォトジャーナリスト

 3月、吹き抜ける風は心なしか温かかった。大地がほんのり淡い緑に色づきだし、時おり鳥たちのさえずりがどこからともなく響いてくる。8年ぶりに訪れたシリアの大地は、再訪を優しく受け入れてくれるような、伸びやかな季節だった。北東部はクルド人たちが多く暮らす地域ということもあり、彼らにとってのお正月にあたる「ノウルーズ」の準備で、どこか村々はそわそわした空気に包まれていた。お祝いの羊料理のため、広場では羊市の真っ最中だった。「おーい、お茶でも飲んでいけー!」と遠くから羊飼いたちが手を振る。そんな何げないやりとりを重ねる度に、懐かしいような、愛おしいような気持が一気にこみ上げる。

広場の羊市。遠くに見える山の端にはまだ雪が残る(写真はいずれも筆者撮影)

シリアの人々の優しさ、気遣いに触れた日々

 シリアとの縁は学生時代に遡る。大学生の時、日本で開催されたとある交流キャンプで、イラク人の青年と親しくなった。その後彼は故郷に帰ったものの、治安の悪化に伴い、隣国シリアへと逃れていった。今となっては想像しがたいかもしれないが、当時のシリアは治安が安定し、むしろ隣国の避難者を受け入れる側の国だったのだ。「シリアならきっと会いに行ける」と飛び立ったのが、この国との出会いだった。

 降り立ってからは驚きの連続だった。風景の美しさもさることながら、とにかく溢れんばかりの優しさ、気遣いに日々触れることになる。道を尋ねればあっという間に人だかりができたかと思うと、「こっちだ!」とバス停まで案内され、さらにはバス代まで彼らが払ってくれたことがある。風邪をひき、鼻をすすりながら道を歩いていると、通行人の方がさっとティッシュを差し出してくれたり、水を買おうと立ち寄った商店で「ごめん、大きなお札がないんだ」と言えば、「いいさ、お金なんていらない。シリアへようこそ!」と笑顔で歓迎され、「もう一本持っていけ!」とコーラの缶まで頂いたりもした。

 週末になると「一人の人間にこんなに友達や親せきが?!」と驚くほど、部屋にぎゅうぎゅうになりながらご飯を囲み、その週に起きたことを語り合う。「今度はうちに遊びに来い」とその場で誘われ、社交辞令かと思いきや、数日後には「で、いつ来るんだ?」と電話がかかってくる。「私たちの家はお前の家だ」という声を何度かけられただろう。

 ただ、外から来た私たちも、不穏な空気を感じないわけではなかった。政治の話はタブーとされ、「アサドは…」とつぶやこうものなら、「し!」と友人が血相を変えて止めに入ったのを覚えている。それでもあの時はこの国が、8年近くに渡る内戦に飲み込まれていくことなど想像すらしていなかった。この地は最初から「戦場」と呼ばれていたわけではなく、元から「難民」と呼ばれていた人もいなかった。彼らが今生き抜いている「非日常」は、「日常」と地続きだった。

内戦前の首都ダマスカス、旧市街地。にぎやかな商店が軒を連ねていたハミディア市場

ファラーフェルで思い起こした温かさ

 今年3月に訪れた北東部の街、マリキヤの食堂で、最初の朝ごはんを頂いた。軽食の定番でもあるファラーフェル(ひよこ豆のコロッケ)は安価で腹持ちがよく、口いっぱいに頰張っていると、「どこから来たんだ?」「よかったらキッチンも見ていきなよ!」と人懐っこい売り子たちが声をかけてきた。厨房にはケバブ用の羊肉の香ばしい香りがいっぱいに漂っていた。「よかったらつまんで!」「ほら、こっちのファラーフェルの方が出来立てだ!」と次々差し出される懐かしい味をかみしめているうちに、気づけば涙が止まらなくなっていた。「どうした?!俺たちの作ったファラーフェル、美味しくなかったの?!」と心配そうにこちらをのぞき込む彼らを前に、また抑えきれない感情がこみ上げる。

 ああ、私はこの空気感を知っている。この温かさを知っている。これは8年前に、私が訪れたときに味わった感覚だ。友人たちとたわいもない話をしながら、あの時も同じように皆で食卓を囲んでいた。食べ物は単にお腹を満たすだけではなく、その味は時に心の奥深く眠っていた思い出を優しく呼び起こすのだ。

朝食で頂いたファラーフェル。野菜の漬物やひよこ豆のペーストなどと一緒に頂く

同じ食堂で、ケバブ用の肉を焼いていたお父さんたち

 シリアの現状はいまだ厳しい。在英のNGO「シリア人権監視団」によると、2011年3月15日から、内戦7年となる今年3月までの犠牲者数は、35万人を超えたとしている。その後も戦闘や化学兵器による被害など、犠牲者は増え続けている。国内外で避難生活を送っている人々の数も、1200万人に達するとされている。内戦前の人口が約2200万人であったことを考えると、その半数以上が故郷を追われたことになる。いまだ不安定な地域は数多く残り、たとえ目に見えた戦火が収まってからも、日常を取り戻す道のりはなお遠い。私が足を踏み入れた村々も、瓦礫が積み上がり、民家の軒先には茶色く錆びた不発弾が転がっていた。逮捕や拘束、あるいは徴兵を恐れ、男性たちやその家族も暮らしていた街に帰ることを恐れていた。

ISによる占領やその後の戦闘など、何重もの戦闘に見舞われ、廃虚と化した村も少なくなかった

退けられた難民認定

 今年3月20日、東京地裁はシリア人4人の難民認定を求める訴えを、退ける判断を下した。原告の一人であるヨセフ・ジュディさんは、反政府デモに参加していたことによって身の危険を感じるようになり、国外へと逃れている。けれども東京地裁の判決は、政権側から迫害を受けたとされる逮捕状や判決文といった“客観的な証拠”がないとしている。 ヒューマン・ライツ・ウォッチの2010年の報告書では、内戦に突入する前から横行していた政権側による人権抑圧の問題を厳しく指摘している。中でもジュディさんのようなクルドの人々に対する抑圧は、国籍のはく奪を含め多くの不利益を生んでいた。

 以前シリア北部で取材をさせてもらったクルド人のご家族も、内戦前に父親が理由も明確でないまま突然拘束され、数千ドル近くの大金を支払いようやく釈放されたと話してくれた。10日間にわたり、尋問と拷問が続いたと振り返る。人権団体が拘束時の様子の聞き取りをしたいとやってきたものの、「また自分を捕まえる口実を与えてしまう」と父親はかたくなにそれを拒んだという。正式な逮捕状を提示されたことは一度もなかったそうだ。こうした積み重ねの上に戦闘が起これば、更なる迫害が横行してしまうことは目に見えているのではないだろうか。

 こうした闇の中に葬られてしまいがちな迫害、光が当たらない脅威こそ、難民となってしまう人々がくぐり抜けてきたもののはずだ。そもそも傷つき逃れてきた人々に、“客観的な証拠”を集める余裕があっただろうか。

 かねて日本の難民認定の厳しさは指摘され続けてきている。2017年の難民申請者数は19,623人、うち難民として認定されたのはわずか20人に留まっている。その点に関しては、今回記事に協力して下さっている認定NPO法人難民支援協会(JAR)の記事に詳しく書かれている。

 「難民問題」と聞けば、遠い国の大変な問題、というぼんやりとした輪郭で語られることがほとんどだ。実は私たちの隣人であることを、どうしたら肌触りのある感覚で分かち合えるだろうか。そんなことを考える中でふと思い出したのが、再訪したシリアの食堂でのことだった。人は理由なく、自分が最も大切だと感じている人々や場所を手放したりはしない。やむなく切り離されてしまった故郷の味を、彼らはこの日本でどう再現し、またその味からどんな思い出が浮かぶのだろうか。

シリア北東部、アムダ。夜明けとともに、町はずれの市場には次々と新鮮な野菜が運ばれてくる

アムダ郊外の村で。「今年は雨が少ない」と心配しつつ、畑仕事に精を出す家族たち

滞在中お世話になっていたご家族の家で。皆で大皿を座って囲む

「食」を通して難民の人々に心を寄せる

 私が「食」を通してシリアでの日々に思いを馳せたように、日本の中で心の距離を縮めるヒントもそこにあるのかもしれない。街中にはエスニック料理店も並び、食文化が多様な今だからこそ、「食」を通して海を越え日本へと逃れてきた人々に心を寄せることはできないだろうか。この連載では生まれた国もバックグラウンドも、日本での生き方も多様な方々が、なぜ日本に逃れ、その前にどんな日常を送っていたのか、大切にしている食文化を軸にお伝えしていきたいと思う。

(この連載は毎月第4土曜日に掲載します)