アメリカは死なない~レナード・バーンスタイン生誕100年に寄す
2018年09月08日
“Think pessimistic, Act optimistic(思考は悲観的に、行動は楽観的に)”
これは、私がこの夏ある日本人アーティストから直接もらったメッセージだ。そして、このフレーズが本稿の「主題」である。
本稿は、悲観に押しつぶされそうな今の社会にあって、どうしたら楽観できるのかという点について、今年生誕100周年を迎えたバーンスタインから現代を代表する指揮者ドゥダメルまでの「闘い」と、この夏のいくつかの出来事に焦点をあてながら、現在のアメリカ・クラシック音楽シーンが持つ重要かつ独特な役割を解き明かしながら論じていきたい。
リベラルな諸価値は今や、日本そして世界で「●●ファースト」という言葉を纏(まと)った分断と、排斥を露悪的に標ぼうする権力と国民との不作為の共犯関係、及び相互依存による再生産に飲み込まれ、極めて弱体化している。悲観せざるを得ない現状である。
そこで必要とされる人間や人間社会の底力とは何だろうか?
絶体絶命の危機に普通のサラリーマンが超人となって人々を救う。地球外生命体が地球に飛来し、子供が連れ去られてしまっても、善良な宇宙人は子と共に地球に降り立ち、人間は宇宙人とも笑顔で交わることができる。スポーツを共通言語として、人種や性別や体の自由に関係なくあらゆる人間が共存する。アフリカの奴隷制度という人類史上最も卑劣な人権侵害も、人間の力で克服することができる。宇宙をかけた闘いは、人間社会を投影した秩序と混沌の中、平和への道を探る。
どこかで聞いたような話? その通り!
まず、普通のサラリーマンが社会を救うヒーロー(スーパーマン)。次に、宇宙人との大団円(未知との遭遇)。そして、スポーツという共通言語(オリンピックテーマ)。さらに、アフリカ奴隷制度の解放(アミスタッド)。最後に、地球という枠組みを超えた宇宙をモチーフにしたこの世界の闘いと平和(スターウォーズ)、そして愛憎まみれる人間ドラマ。
もうおわかりだろう。これらの共通点は、いずれもジョン・ウィリアムスが音楽を担当した映画である。今年(2018年)のタングルウッド音楽祭のメインコンサートだった“Film Night”では、ジョン自身がタクトをとったプログラムのラインナップである。
これらが伝えようとする価値はあまりにある意味、陳腐だし、現代社会においては、スーパーマンは偶像的に劣悪なポピュリズムに浸食され、人類や人種を超えた共存は困難で、人類は平和への道に背を向けて歩き出しているのではないかと思えるようなニュースばかりが世界を賑わせている。
もはや、こうした作品群が描こうとしてきた“単純な”価値は賞味期限切れで、人々の心を動かさない、効能のないお札のようになっているかもしれない。
しかし、ここに表出される、アメリカの文化人が希求し、アメリカの国民が守ろうとしてきた陳腐な根源的価値は、負の側面も大いにあるにせよ、狭矮なアメリカ独自の価値の賛美ではなく、建国以来のアメリカ社会が持っていると信じられてきた価値(自由や民主主義)であり、人間存在が普遍的にもつ底力ともいえる価値に他ならない。
批判を覚悟のうえで、私はこれをアメリカの「善意」の側面と呼びたい。
こうしたアメリカの善意を具現化したような存在が、そう、レナード・バーンスタインである。
生きていれば、今年8月25日に生誕100年を迎えたバーンスタインの音楽が、世界各地で演奏、再評価されている。彼の“本拠地”であるアメリカ各地では、バーンスタインの楽曲をプログラムのメインにすえた演奏会が、「我こそがアメリカ音楽の伝道師」といわんばかりに開かれている。
前述のジョン・ウィリアムズによる“Film’s Night”でも、アンコールではジョンがバーンスタインのために作った楽曲が演奏された。そして、曲にあわせてステージに降りてきた巨大スクリーンには、バーンスタインの功績をたどる映像が映し出された。
彗星のようにアメリカ音楽シーンに登場したバーンスタイン。ウェストサイドストーリーなどの楽曲の作曲者としての活躍。音楽と正面から丸腰でぶつかり、弾き飛ばされ、抱擁し、時に“幼稚”と揶揄されるほどに、無邪気に手足を広げ、飛び跳ねるようにオーケストラを指揮する姿。内戦が激化するイスラエルを訪れ、崩壊したベルリンの壁で世界中のオケの合同オーケストラを指揮し自由を歌い上げる。そんな彼のありのままの姿が、次々と映し出された。
バーンスタインという、「人間の良心」や「善意」を心の底から信じ切っている男が、ここアメリカには間違いなくいたのだ、という強い強いメッセージが、そこには刻印されていた。
と同時に、「彼はもういないのだ」という寂寥(せきりょう)感、無力感も、演奏の残響のように聴衆の心に響いた。
「人間は愚かで汚く移ろいやすく、信じ切ることなんてできやしない」という諦念(ていねん)へのカウンターとして、バーンスタインは、立場や見え方やしがらみゆえに誰もができなかったストレートな方法で、善意や良心に接近した。人々はバーンスタインを通じて見せられた、あまりに剥き出しの人間の良心や善意への接近の仕方に、憧れ、嫉妬し、そして称賛したのだ。
世界が混沌(こんとん)の度合いを深める2018年に、バーンスタイン生誕100周年という区切りを迎えるのは運命的としか言いようがない。そこで我々は、バーンスタインという象徴的な存在を通じて、アメリカとはなんだったのか、人間存在が寄って立ちうる善意とはなんだったのか、ということに強制的に向き合わざるを得ない。
しかし彼は、もう、いない。我々はバーンスタインの残像を亡き恋人のように瞼(まぶた)の裏で追い続けるしかないのか。アメリカ・クラシック音楽シーンは、死せるバーンスタインを頼るしかないのか。
答えは、“NO!”だ。
タングルウッド音楽祭は約2カ月にわたり、毎日のように演奏会が行われているが、週末には目玉となるプログラムが組まれる。音楽祭全体のメインである前述のジョン・ウィリアムスによる“Film night”と双璧として組み合わされたのが、マイケル・ティルソン・トーマス(以下「MTT」という)指揮によるマーラープログラムだった。
MTTは、ロサンゼルスのロシア系ユダヤ人の家庭に生まれ、南カリフォルニア大学で音楽を学び、19歳でロサンゼルスの名高いマンデーイブニングコンサートでタクトをとり、24歳でボストン交響楽団でデビューするという、生粋の「アメリカンミュージシャン」である。
MTTといえば、1995年以来、音楽監督を務めるサンフランシスコ交響楽団との関係が特筆される。
土地柄もあり、世界でも有数の民族的多様性に富んだオケ。ベイ・エリアの資本家などとの革新的な関係構築。ウェブサイトなどを駆使した音楽教育プログラム。(これらは潮博恵著『オーケストラは未来をつくる~マイケル・ティルソン・トーマスとサンフランシスコ交響楽団の挑戦』(ARTES)に詳しい)。
MTTは自らが同性愛者であることを公表しており、2014年にはパートナーと正式に結婚した。MTTとサンフランシスコ交響楽団は、文字通り、“多様性”を体現した“リベラル”な存在である。
そして、いわずもがなだが、このような“リベラル”な価値とそれを体現する存在は、トランプ政権下のアメリカと現代の世界において、窒息気味であることは間違いない。
MTTの特徴といえば、①マーラー指揮者②イノベーティブなプログラミングと知的アプローチによる明晰な音楽づくり③俳優のようなルックスと独特の言語感覚を駆使する希代のエンターティナー④自ら創設したニュー・ワールドシンフォニーや、バーンスタインが創設した「パシフィック・ミュージック・フェスティバル」(PMF)での熱心の後進指導「教育者」としての顔、などが指摘される(前掲書参照)。
この①~④はバーンスタインそのままだ。
MTTの指揮ぶりを見れば、バーンスタインのそれを(無意識的であったとしても)意識していることは間違いない。子供のように飛び跳ねたり、音楽と戯れてダダをこねたり打ちひしがれたり、全身でそれを表現する様は、まるでバーンスタインのようだ。
演奏について言えば、その言動とルックスで、かなりシャープで軽量なイメージがあるが、そんなことはない。むしろ、粘着質で強いデフォルメのかかった音楽づくりをする。バーンスタインが晩年、「私のオケ」と呼んだニューヨーク・フィルと録音したチャイコフスキーの後期交響曲や、ウィーンフィルとのいくつかの録音群を思い出せば、その同質性を理解してもらえるかもしれない。
MTTの音楽は、時に「やりすぎだろ」と言いたくなるが、聴き手をそこから離れさせずに成立していく。根底にあるのが、音楽を起動し推進し躍動させる、善き「楽観(optimism)」である。
たとえば、MTTが2013年にサンフランシスコ交響楽団と録音したベートーベンの第九。第三楽章の豊潤な音楽も特筆ものだが、第四楽章、器楽と合唱が歓喜の歌を交互に演奏したあと、行進曲をバックにテノール独唱の冒頭の"Froh!“のあまりの能天気ぶりには、ひっくり返りそうになる。まるで、山登りのときの「フニクリ・フニクラ」かと見まごうほどの、底抜けの明るさだ。
「やりすぎだろ」と突っ込みたくもなるが、このあと曲はそんな突っ込みもバカバカしくなるような合奏の輝きと合唱の執拗(しつよう)なまでのbruder!(世界皆が兄弟だという理想)の強調を伴って、あからさまな「楽観」へと昇華していく。
後述のとおり、アメリカのクラシック音楽は、クラシックの複雑さと本質を理解しない一面的なものだといった類の批判を受けやすい。たしかにそうかもしれない。しかし、「でもいいじゃないか」と言わせる独特の力があるのも事実だ(現在のアメリカ・クラシック音楽シーンを新鮮な切り口で解説するものとして、能地祐子著『アメクラ!アメリカン・クラシックのススメ』DU BOOKS)。
クラシック音楽には、それぞれの国のそれぞれの演奏に、それぞれの機能がある。あってしかるべきなのだ。芸術が私たちに提供する大切な価値の一つが、「正解はない」ということなのだから。
MTTはバーンスタインを"omnivorously curious, confrontational, and generous spirit."という言葉で描写していた。すなわち、「雑食で好奇心旺盛、(既存の価値や権力に)対決的で、寛大な精神」。これぞ、まさにアメリカ・クラシック音楽の核心そのものであり、建国以来アメリカが涵養(かんよう)してきた価値ではないか。
たしかにアメリカ国民は皆、現在や未来に悲観的(pessimistic)なのかもしれない。昨年、西海岸を訪れた時も、同性愛者や移民の人々は、口々に日々の不安を語っていた。分断と排除がまかりとおる日常で、心に平穏はない、と。
しかし、アメリカ・クラシック音楽シーンにおける、上記のような失われつつある“善きアメリカ”的リベラルな価値への信奉と礼賛(バーンスタインというシンボル)と、これらを失わないための闘い(MTTや後述するドゥダメルという大きな意味でのアメリカンクラシックの継承者たちの奮闘)は、彼らが現状を認識し悲観的になりながらも、普遍的価値から遠ざかるアメリカにあって、なお楽観的(optimistic)でいるための「装置」に燃料をくべ続ける厳しい作業に思えた。
思考のスイッチが悲観にシフトしている以上、楽観的に行動するのは難しい。私も日々、悲観と絶望に押しつぶされそうになる。そこで、楽観的に行動するためには「装置」が必要なのである。人間にはまだ信ずべき良心があり、それが多数派によって侵されたとしても、これに抗(あらが)い闘うのだ。そう奮い立たせる「装置」が必要である。
この装置をこの社会に埋め込み、スイッチを押すのもまた、人間である。そして、装置を生成し、ボタンを押してくれる機能が、現在のアメリカクラシック音楽シーンにはまだ、ある。
次回は、この夏に西海岸であった「自由の戦士」たちの“Act optimistic”(楽観的に行動する!)のための「終わらない闘い」を紹介する。(9日に「公開」予定です)
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